エキセントリック・スーパーマジック・ショウタイム
「ジンブツガ」のお話。前編。


 知ってる?うん、見た見た!
 ここは大きな城下町、人々の噂はあっと言う間に広がって、誰もそれを知らない人はいなくなる。
 すごいよねぇ、楽しみだよねぇ!
 ばらまかれたビラに、風船につけられた広告に、楽しげな謳い文句が踊っている。
 魅惑のジャグラー、可憐な踊り子、驚くほどの怪力男に、仮面の猛獣使い。
 そんなサーカスが、この町にやって来た。
 これは、行かなくちゃね!
 街外れの大きなテントに、みんなが向かう。だって、そこは楽しい夢のステージだから!

 「サーカスが…サーカスが、来たんじゃな」
 老人は、孫が持ってきたビラを見て、その手を震わせていた。
 エキセントリック・スーパーマジック・ショウ。この長い人生の中で、一度たりともその名前を忘れたことはなかった。
 本当は、記憶の片隅にも残らないほどに、忘れてしまいたい名前だったというのに。
 「行きたいのですか、おじいさま?」
 「そうじゃな…」
 至極当然ともいえる質問に、老人は顔を伏せた。
 「行きたくない、という訳ではないが…何しろ、わしはベッドの上からは動かれぬからな」
 「では、一日サーカスを借り切って、中庭で演じてもらうというのはどうでしょう?」
 裕福な家庭ならではの提案を笑顔で述べて、青年は祖父の顔をのぞきこんだ。
 老いさらばえた顔には、何ともいえない苦渋が浮かんでいた。
 「おじいさま…」
 代々続く資産家の当主を立派に務め上げ、何の不自由もしていなかったであろう老人には、およそ似つかわしくない表情だった。
 「もしかして、サーカスはお嫌いですか?」
 「いや」
 心配して眉を寄せる孫にゆっくりと首を振り、彼は言う。
 「あのサーカスには…ある物を預かってもらっているんじゃ」
 「あるモノ?」
 知人、というのならばともかく、何故、街から街を渡り歩くサーカスなどに?まったく見当がつかない。
 「それは、一体何なんです?」
 「一枚の…絵画じゃよ」
 そう言って、老人は窓の外に目をやった。視線の先には、サーカスの大きなテントの頂点だけが見えていた。極彩色の旗が、風になびいてせわしなく揺れていた。
 「まだ、残っているのかどうか…そればかりが気がかりで」
 つられる様に窓の外を見ると、青い空の真ん中を、赤い風船が横切っていくところだった。

 「そういう訳で」
 青年は、サーカスを訪れていた。
 名前を名乗って通されたテントは、薄暗く、狭かった。使い古されたテーブルを挟んで向かいに座っているのは、団長だという青年と、踊り子の少女、そして青い髪の怪力男。じっと見つめられながら話すのは、居心地のいいものではなかった。
 「もしもまだここに、その絵画があるのでしたらば、一目でいいから祖父に見せてやりたいのです」
 「……そうですか」
 目深にかぶったシルクハットのせいで表情のうかがいしれない団長が、感情の感じられない声で答えた。
 「しかしそれは、ご老人の望みなのでしょうか」
 「それは」
 もちろん、と言いかけて、青年は言いよどむ。結局、祖父はそれを見たいのかどうか、はっきりとは言わなかったのだ。
 「その」
 「そもそも坊ちゃん」
 破れた袖から丸太のように太い腕を見せつけながら、青い髪の男が口を挟んだ。
 「お前、それが何の絵か知ってんのか?」
 「いえ」
 ぞんざいな口調に多少の腹立たしさをおぼえながらも、青年はあくまでも穏やかに返事をした。
 「ただ、祖父が若い頃に、絵描きを雇って描かせたものだとは聞いたのですが」
 「で?何の絵かってのは、想像つかない?」
 「…は?」
 そんなことを言われても、さっぱり見当がつかない。そもそも、祖父がこんな小さなサーカス団とやらと関わりを持っていること自体が分からないのだ。
 怒りと困惑をないまぜにしたような表情でじっと男を見つめ返す青年に、団長が静かに告げた。
 「例えばの話…と仮定して聞いていただければ結構なのですが」
 口元がふと笑った。
 「あなたのお爺さまが、いくら資産家の好青年であっても、なびかなかった女性がいたとしましょう」
 例え話にしては唐突な。そう言いたげな青年をやんわりと制して、言葉は続く。
 「そこで、叶わぬ想いを絵画にした…けれども、それは」
 その絵画の存在は、将来、自らの妻となる女性への不貞に他ならない。手元に残しては置けなかったのだと、さすがに青年にも察しがついた。
 「そういうお話なら、納得がいきました」
 頭を下げる青年に、団長はわずかに苦笑を浮かべて念を押した。
 「あくまでも、例え話ですよ。今の話が真実であるとは限らない、ということを、くれぐれもお忘れなきよう」
 「分かりました」
 しかし、青年は満足げな表情で立ち上がり、尋ねた。
 「それで、その絵は今、ここにあるのですか?」
 「ええ」
 団長はうなずいた。
 「お預かりした時のまま、ですよ」
 「では」
 さらに嬉しげな顔つきになる青年は、しかし次の言葉で鼻白んだ。
 「ですが、見たいと仰るのならばやめた方がいい」
 「何故です?」
 祖父が愛して、叶わなかったという女性の肖像画。たかが古ぼけた絵画のはずだが、団長は首を振って止めた。
 「過去の話、それも色恋沙汰をほじくり返すのは、あまり趣味がいいとは言えませんよ」
 「そ…そう、ですか」
 ぴしゃりと言い切られてしまっては、返す言葉もない。青年はわずかに肩を落とし、礼を言った。
 「どうも失礼しました。では、僕はこれで…」
 「公演を見ていらしたらどうです?」
 「いえ」
 小さく手を振って、彼は断った。
 「祖父のところへ戻らなければいけませんから。それでは」
 薄暗いテントの中から、光のさす広場へ。その背中にかけられる声は、あくまでも優しかった。
 「お爺さまに、よろしくお伝えください」

 ひゅっ、と風を切って銀色のナイフが飛ぶ。
 それはカツッ、と小気味のよい音を立てて、狙い過たず的の中央に突き刺さる。そのすぐ隣には、さきほど投げた短剣が、規則正しい感覚できれいに並んでいた。
 「はッ!」
 目隠しをしたままナイフを投げ続けているのは、一座のジャグラー、ファビエンヌだった。まるで求道者でもあるかのように、ただ黙々と、左手に持った篭の中から一本つかみ出しては、投げる。
 その呼吸が、ふと乱れた。
 「……誰!?」
 砂利を踏む音に振り返り、彼女は目隠しを外した。
 「ロギンス…?」
 少し後ろに、育ちの良さそうな青年が立っていた。その名を呼んでしまってから、ふと、苦笑を浮かべる。
 間違えた。彼はもう、老人になっているはずだった。
 案の定、青年は驚いたような顔をしてファビエンヌに近づいてきた。
 「ロギンスって…」
 「ごめんなさい、間違えたわ」
 手の甲で汗をぬぐい、彼女は微笑んだ。
 「ちょっと知人に似ていたものだから」
 「知人?」
 しかし、青年の反応は、ファビエンヌが予想していたものとは少々違っていた。
 「あなたが、おじいさまの?」
 否定する間もなかった。青年はさらに彼女に近づき、じっと顔をのぞきこんで尋ねた。
 「それでは、何かご存知ではありませんか?おじいさまの、絵のことを」
 「ロギンスの絵」
 オウム返しにつぶやいて、ファビエンヌは首を振った。
 「ダメよ。あれだけは、ダメ」
 「何故ですか?」
 それでも青年は食ってかかる。両手で彼女の腕をつかんで、繰り返す。
 「何か知ってるんでしょう?教えてください」
 「どうして?」
 逆に彼女は問い返した。
 「どうして、あの絵のことをそんなに知りたがるの?あなたには関係ない、もう終わったことよ」
 「団長さんもそう言った」
 納得できない、と青年の顔には書いてあった。
 ちょっと子供っぽかったかもしれない。それでも言い出したら引っ込みがつかなくて、青年は彼女に訴えかけた。
 「でも、昔の話だっていうんなら、教えてくれたっていいじゃないですか。たかが、絵画一枚の話じゃないですか。それをどうして」
 「たかが、絵画?」
 だが、その言葉で、ファビエンヌの表情が変わった。
 「本当にそう思う?」
 「…え?」
 緑の瞳が青年を射抜く。
 まっすぐに鋭く、冷たく、それでいて、どこか寂しげな深い色。まだ年若い青年をひたと見据えたまま、ファビエンヌは続けた。
 「たかが絵画一枚で、人が死んだとしたら?」
 低い声だった。
 のぞきこむ瞳は、怒っているようにも見えた。
 「それも一人じゃない。何人も…何人も、死んだのだとしたら?」
 「まさか…そんな馬鹿な」
 「嘘だと思うなら、ついてらっしゃい」
 彼の手を払って、彼女は踵を返した。
 「お望みどおり、見せてあげるわよ。その絵を」
 「あ…」
 返事も聞かずに歩き出すファビエンヌの背中を、青年はあわてて追いかけた。

 ファビエンヌが私室として使っている小さなテントの中には、私物と呼べるようなものは何もなかった。ただ、がらんとした部屋の真ん中に、白い布をかけた物体が置いてあるだけだ。
 しかし、薄い布越しに、イーゼルの上に額縁が載せてあるというのは簡単に見て取れた。
 「これが、おじいさまの」
 「そう」
 彼女は大切な物を扱うように、そっと布の端に手をかけた。
 「さあ、ご覧なさい。これが」
 白い布を勢いよく取り去る。
 そこには、イーゼルと、一枚の絵があった。
 風景画と呼ぶにはあまりにも殺風景な、誰も腰掛けていないソファだけを描いた絵。これが、と言いかけた青年の目の前で、ファビエンヌは寂しそうに笑った。
 「そう。これが、ロギンス卿から預かった絵よ」
 「でも、誰も描かれてないじゃないですか」
 騙されたのか?それとも、何も知らないと思って、僕を馬鹿にしているのか。
 思わず拳を握りしめる青年の目の前で、彼女はゆっくりとキセルを取り出し、火を入れた。絵画の前で、煙を吐く。
 「な…煙草なんて」
 「わたしには、必要なの」
 きっぱりと言い置いて、ファビエンヌは額縁に片手を添えた。慈しむようにレリーフの模様をたどり、やがて、口を開いた。
 「ロギンス卿がまだ若かった頃…そう、丁度今のあなたぐらいの歳だった頃の話になるわ」
 何も描かれていない絵に、また、紫煙がかかった。


続く

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