さーあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
子供も大人も、みんなおいで。楽しい時間の始まりだよ、面白い夢が見られるよ。
サーカスが来たよ!さあ、みんなで、見に行こう!!
「宣伝、ご苦労さん」
赤いマントにシルクハット。派手な出で立ちの団長は、仲間の肩を叩いた。
黄昏迫る街路の雑踏、最後の風船を受け取った子供が、親の元へと駆けて行く。にっこりと笑って手を振って、青い髪の青年が振り返った。
「おう。ちゃんと全部、配り終わったぜ」
「手ごたえはどうだ?」
「みんな、興味津々って感じだな」
ぼさぼさの髪を楽しげにかき回して、嬉しげに言う。
彼らはサーカスを生業としている。たくさん宣伝して大勢の客を呼び、曲芸を見せるのが仕事だ。だから、街の人々に興味を持ってもらうことから始めなければならない。
大変だが、やりがいのある楽しい仕事だった。
「こっちも終わったわ」
その時、二人の後ろから、二人連れの女性が近づいてきた。
「たくさんお客が入るといいわねぇ」
少し年かさの、赤銅色の髪の女性が、紙巻煙草を手に笑う。もう一人の金髪の少女は、ゆっくりと顔をめぐらせ、辺りを見回していた。
「じゃあ、今日のところは戻ろうか」
そんな彼女の手を引いて、団長は仲間たちを促した。
「明日からは、きっと忙しいぞ」
街外れの広場に設営したテントへと、夕暮れの街を歩き出す。
小規模なサーカス団だから、主なメンバーはこの四人だけ。けれど、芸の中身はどんなサーカスにも負けない自信があった。
エキセントリック・スーパーマジック・ショウ。少し長いが、それが、彼らの名前だ。
わあっ――!!
テントの中は、熱気にあふれていた。
ファビエンヌの投げるナイフは、一本たりとも狙いを外さない。身動きできないように革ベルトでがっちり固定された男性の頬を、肩を、脇腹をかすめて、ギリギリの位置に突き刺さっていく。その度に、悲鳴と歓声が上がってテントが揺れる。
「でも…こんなのは序の口よー!」
高らかに宣言し、彼女は観客席へ向かった。一人の客からスカーフを借りて、それを目隠しにしてさらにナイフを手にする。
うわああっ、と盛り上がる観衆。青い顔をする標的の青年に向かって、ファビエンヌはにっこりと微笑んだ。
「さあ、お立会い。上手くいったら、盛大な拍手を!!」
長く優美な指先に、あろうことか二本ずつナイフを持って、彼女は的に向かった。いやがおうにも盛り上がるドラムロール。
そして、四本のナイフが、銀色のきらめきと化して、一斉に青年を襲う!
きゃああァ――ッ!!
思わず悲鳴が上がる。
だが、次の瞬間、それは嵐のような拍手に変わった。ナイフは、青年の広げた指の間にきれいに並んで突き立っていた。
お次の出し物はアクロバットの曲芸だ。
一座の花形ダンサー、レイチェルが笑顔で大きな玉に乗る。ステージを一周しながら、その上でボールをお手玉。周りからどんどん新しいボールを放り込まれて、七色のボールをジャグリングしながら、その足元はまるで固い地面を歩いているかのようにしっかりしている。
その玉が、板でできた坂道に差し掛かった。ゆっくりと慎重に、彼女は板の上に乗っていく。
「はいよッ!」
するとそこで、サーカス一の怪力男が姿を見せた。
たくましい上腕二頭筋をこれ見よがしに観客に披露した後、おもむろに、レイチェルが乗っている板をぐいっと持ち上げた。
あっ…ああッ!!
その途端に、ため息のような悲鳴が、観客から漏れる。
大きくバランスを崩して、レイチェルが大玉の上でたたらを踏む。だが、そんな様子にはお構いなく、ユーゴスは自分の肩の上に、ひょいっと板を担ぎ上げた。
レイチェルが、落ちる――!
誰もがそう思った瞬間、彼女は手に持ったボールを全部空中に放り投げ、大玉の上に逆立ちになった。それも一瞬の事で、すぐにとんぼ返りをうってまたまっすぐ立ち上がり、落ちてきたボールを受け止めていく。
ただ、最後のボールだけ、一拍置いて、見事ユーゴスの頭のてっぺんにゴツンと命中した。
「いっ…てぇー!」
拍手と喝采と爆笑が、巻き起こった。
団長であるカスタリアンは、猛獣使いだ。
目も覚めるような美しい顔立ちの青年が、黒光りする革のムチを一振りすると、吠え猛る虎や熊がとたんに大人しくなる。まるで従順な犬か猫のように頭を垂れて命令を聞く。
「はッ!」
ひゅっ、と空を切ってムチがうなると、大きな熊が小さな玉の上で逆立ちする。
最後の見せ場は火の輪くぐり。カスタリアンの二倍もある大きな虎が大きく吠えて、燃え盛る炎の輪に向かってダイブする。
尻尾の先から火の粉が散って、薄暗い観客席へとかすかな軌跡を描いて消えていく。
それはまるで夢のような、一時。
そしてサーカスは、火の粉と同じように淡く消えて、終わっていくのだ。
帰り道、テントから家路へと向かう人の群とは逆に、一組の男女がサーカスへと向かって歩いていた。人込みを避け、顔を隠すように道の端を歩く中年の男女。
二人は、夫婦だった。このサーカス団にまつわる、ある噂を確かめるため、暗い道を急ぐ。やがて人並みも途切れ、彼らは、静まり返ったテントの入り口に立っていた。
「どうされました?」
ふいに、正面から声がかけられた。
そして、目の前にぱっくりと黒い口を開けたテントの中から、まるで唐突に一人の青年が姿を見せた。
「忘れ物でも、なさいましたか?」
穏やかな声で、青年は尋ねた。赤いマントにシルクハット。広いつばに隠されて、その表情は見えないが、そこに立っていたのは団長にして猛獣使いのカスタリアンだった。
「い、いえ…」
妻の方がなんとなく決まり悪そうに顔を伏せる。だが、すぐに夫の顔を見上げて、決心したように前を見た。
「団長さん…ですか?」
妻の視線を受けて、夫が尋ねた。喉にものでもつかえているかのような、歯切れの悪い声だった。
「ええ、そうです。何か、ご用ですね」
言いたくなさそうな素振りを察してか、カスタリアンの口元がにこっとほころんだ。
「では、中でお話をうかがいましょうか?」
猛獣の口のように、真っ黒な空間を示して彼は誘う。入ったら二度と出られないような気がして、夫婦は首を振った。
「いえ」
夫は低く答えた。
「ただ一つだけ、お伺いしたいことがあっただけなので」
そして、沈黙する。どこか遠くで、サーカスの獣が一声鳴いた。
「このサーカスでは…あるものを、買っていただけると聞いたのですが」
「ああ」
カスタリアンの口元から、笑みが消えた。
「ええ。そうです」
きっぱりと答えて、彼はじっと夫婦を見た。帽子の影が顔に落ち、その顔はやはりはっきりとは見えないが、確かにまっすぐな視線を感じて、二人は居心地悪そうに視線を外した。
「これを」
そんな彼らの前に、団長は紙切れを差し出した。最前列の特等席のチケットが、三枚。
「決心がつきましたら、これを使っておいで下さい」
それだけ言い残し、カスタリアンはきびすを返した。再び暗闇の口の中へ消えていく赤いマントの後ろ姿と、渡された三枚のチケットを見比べて、中年の夫婦はしばらくの間、立ち尽くしていた。
「オレ、昨日サーカス見てきたんだ!」
エキセントリック・スーパーマジック・ショウの初日興行を見た子供は、ちょっとした本日のヒーローだ。
「すごかったぜ〜!特に団長がカッコいい!虎でも熊でも、何でも言う事聞くんだぜ!信じられるかよ?」
「嘘だぁー!」
「本当だぜ!絶対だもん!」
半信半疑の友達のために、少年はうんと両手を広げて、いかに虎が大きくて怖そうだったかの説明を始める。その話を楽しそうに聞いている子供たちの輪から外れて、ぽつんと立っている男の子がいた。
少年はじっと立ち尽くしたまま、少しでもよく聞き取ろうと他の子たちの話に耳を澄ます。
だが、すぐに、かさこそという小さな音のせいで、現実に引き戻された。
「…行かなきゃ」
手には、わずかばかりの木の実が入った篭。何とかしてこれを全部売りさばかないと、今夜の食事にはありつけない。売りさばいたところで、大した金にならないのはよく分かっていたが、それでも、そうしなければ、食事どころか寝るところさえ追い出されてしまう。秋も深くなり始めたここ最近、表で寝るのも結構辛くなってきた。
せめて、家には入れてもらわなくちゃ。
少年は歩き始めた。子供たちの輪から離れて、市場の雑踏の中へと。
「木の実!美味しい木の実、いりませんか?椎の実、胡桃、色々あるよ!」
サーカス見物なんて、夢のまた夢。
にっこりと笑顔を浮かべて、彼は懸命に歩き続けた。
日がとっぷりと暮れると、夜の風が肌寒さを帯びてきた。
薄いシャツ一枚しか身につけていない少年は、空になった篭を持ち、自分の両肩を抱いて、スラムにある我が家を目指した。今日は何だか気前のいい客がいて、全部買い上げてくれたのだ。これなら明日の朝ご飯も食べさせてもらえるかもしれない。
「ただいま」
「お帰り」
珍しく、母親が返事をしてくれた。驚いて顔を上げると、彼女は笑顔を浮かべていた。
母親が笑っていることなど、ここ最近あっただろうか?少なくとも、少年には、その表情は記憶されていないような気がした。
いつも酒を飲んで管を巻き、息子がちょっとでも気に触ることを言おうものなら容赦なく平手打ちを食らわす。そんな、女だったはずだ。
「何か…あったの?」
恐る恐る、たずねる。それでも母親の機嫌は悪くはならなった。
「まぁね」
だが、その目はどこか遠くを見ているようだった。いつものことだ。彼女はいつも、息子なんか見ていない。そしていつものように唐突に、少年には予想の出来ない事を言い出すのだ。
「明日は、辛気臭い商売なんかしなくていいからね」
「…えッ?」
「いい所へ連れて行ってあげるから、今日は早くご飯食べて寝なさい」
木の実を売りに行かなくていい?それどころか、いい所に連れて行ってくれる?
あり得ない。夢みたいな話だ。
父親は博打好きで借金だらけ、母親は呑んべえで昼間からぐでんぐでん。そんな両親に愛想を尽かし、とっくの昔に兄は家を飛び出してしまっていた。ぎりぎりの生活を支えているのはたった一人残されたこの少年だけ。
わずかな金を手に入れるため、そんな彼をいいようにこき使っている両親が、一体、どういう風の吹き回しだというのだろう?
「何だい?その不思議そうな顔は」
ふいに、母親の声が低くなった。うんと答えない息子に、わずかにいら立ってきたようだ。それに感付いた少年は、あわてて笑顔を作った。
「う、ううん!何でもないよ!」
母親が望む言葉を答えてみせる。
「明日だね。楽しみにしてるよ」
なんだかよく分からないが、期待と同じだけ、不安も大きかった。