エキセントリック・スーパーマジック・ショウタイム
「ヒトカイ」のお話。後編。


 ごった返す人の波、これから起こる事に興奮する子供たち。その中を、両親に手を引かれ、少年は歩いていた。
 父親と、母親の横顔を交互に見上げ、これが夢ではないかと何度も確認する。しかし、少し遅れれば、少し乱暴に引っ張られる手の痛みが、これが現実だと何度も彼に教えてくれた。
 夢じゃない。
 夢みたいだけれども、これは本当のことだ。お父さんと、お母さんと一緒に、三人でサーカスを見に行く。お兄ちゃんがいないのが少し寂しいけれど、そんな事を言ったら多分、贅沢すぎてバチがあたる。
 手を引かれるまま、薄暗いテントの中へと導かれる。そして、両親は、彼を挟んでステージの真正面、最前列の席に座った。
 「何か、飲み物はいるか?」
 父親が尋ねた。
 「ううん、大丈夫」
 興奮のためか、喉は少し渇いていたが、少年は首を振った。少しでも、このまま一緒に座っていたかった。
 出来るなら、ずっと、ずうっと。
 その思いを知ってか知らずか、やがてふいに照明が落ちる。
 「あ…っ」
 思わず小さくつぶやいた少年に、左右から父と母の手が伸びてきた。
 「ほら、始まるぞ」
 両親も興奮しているのか、彼と同じように、少し冷たい手をしていた。

 めくるめく不思議の世界が、少年の前に広がっていた。
 次々と繰り広げられるさまざまな芸当。耳をつんざくにぎやかな音楽、めまぐるしく変わる派手な照明。
 それは、まさに、夢の世界だった。あり得ないことが起こっては、どんどん消えて、次の何かに変わっていく。息をするのも忘れるほどに、少年は夢中になった。いつしか、ステージだけしか目に入らなくなっていた。
 そして、ショウがクライマックスに差し掛かる。赤いシルクハットを目深にかぶった団長が、赤いマントをひるがえしてステージに立った。
 「さあて、皆様!」
 柔らかくも凛と張った声で、青年は告げた。大仰に、ステッキを持った右手が振り上げられる。その先には、一つの箱が置かれていた。子供なら何とか入れるであろうぐらいの大きさのその箱は、中がよく見えるように、一面に格子がはめ込まれていた。
 「今宵は、スペシャルマジックをお目にかけましょう」
 箱の傍らには一座の花形、レイチェルが立ち、銀にきらめく長剣を二本、両手に持って振り上げた。照明を反射して、まぶしい光が観客の目を射抜く。
 「さあ…この箱をご覧あれ」
 甲高い金属音を鳴らして、レイチェルが剣を打ち鳴らした。そして、そのまま、箱の上から突き刺す。ざしゅっ、と小気味よい音がする。格子の向こうに、長い剣が完全に箱を貫いている様がありありと見て取れた。
 その様を満足そうに眺めた後、団長、カスタリアンは一際大きく声を張り上げた。
 「さあ!この箱に入ってみたいという、勇気のあるお客様はいらっしゃいませんか!?」
 会場は、しんと静まり返る。
 「さあ!」
 間違いない。もしも名乗りを上げたなら、あの箱に入れられて、長剣で串刺しにされてしまうのだ。
 そんな恐ろしい芸当に、チャレンジなど出来るものか。ざわめきは起こっても、誰も立ち上がる者はいない。
 「では…」
 もったいぶってステッキを振り回し、カスタリアンは少年を見た。
 まるで、最初からそこに子供がいると分かっていたかのように。
 「そこの、坊や。手伝ってくれないかい?」
 「え…っ」
 シルクハットのつばの下から、赤い瞳がじっと少年を見つめている。
 「さあ、おいで。大丈夫…何も、怖いことはないよ」
 口調はあくまでも優しかった。しかし、その目の奥にある何かを直感的に感じ取った少年は、助けを求めるように、両手を伸ばした。
 「大丈夫よ」
 しかし。
 「大丈夫だから、行っておいで」
 両親は正面を向いたまま、彼の事を見もせずにそう言った。伸ばした手は握り返されることはなく、逆に父親に背を押され、少年は立ち上がってしまった。
 「ありがとう。君の勇気に感謝するよ」
 団長の口元が笑った。
 そのまま、冷たい手に引かれ、彼はステージの中央へと導かれる。レイチェルがにっこりと微笑んで、箱のふたを開けた。
 見回しても、誰も助けてくれるものはいない。矢のように突き刺さる視線の中、少年は膝を折った。丸くなってうずくまると、まるで彼のためにあつらえたかのように、小柄な体が箱の中にきっちりと収まる。
 逃げ場はどこにもない。
 「では皆様」
 ぱたん、と静かな音がして、ふたが閉められた。
 「この少年の勇気に」
 不安げな少年の顔が、格子からのぞいた。指先が、救いを求めるかのように差し出された。
 「感謝と、お別れの拍手を」
 口上に誘われるように、拍手が起こる。カスタリアンは一礼して、胸元から一枚のスカーフを出した。
 「それでは――お別れです!」
 箱を覆うようにスカーフをかける。
 少年の視界は、暗転した。

 観客から上がる悲鳴。
 レイチェルの振り下ろした二本の剣は、狙い過たず、少年の入った箱に突き刺さっていた。だが、それでもまだ飽き足らないかのように、彼女はさらに二本、また二本と長剣を取り出し、箱を刺した。上からだけではなく、左右からも、前後からも。
 ざわめきの中、カスタリアンは悠然と微笑んで、箱を乗せたテーブルを回してみせた。八本もの長剣が容赦なく箱を突き刺し、貫いて、少年の居場所などもはやどこにもない。
 「さて…どうなりましたかな?」
 シルクハットの男は笑う。一本ずつ、勿体をつけながら剣を抜く。抜いた剣は足元に投げ捨て、踏みつける。それが、何かの儀式であるかのように。
 息を殺して見守る観客の中、ついに最後の一本が抜かれ、捨てられた。
 静まり返ったステージに、金属音だけが高く、長く響く。それが完全に消え去った瞬間、サーカスの団長は勢いよくスカーフを引いた。
 「あ…ッッ!!」
 そこに、少年の姿はなかった。格子のはまった箱さえも。
 スカーフの下にうずくまっていたのは、可哀相に串刺しにされた子供なんかではなく、一頭の大きな狼だった。
 「グルルルゥ…ガアアアアアッッ!!」
 目の醒めるような青い毛並の狼は、テントを震わせるほどの咆哮を上げ、テーブルの上に立ち上がる。
 「はあッ!」
 ぴしいぃっ!
 それを一本の鞭で従えて、カスタリアンは両手を広げた。
 地鳴りのような拍手が、ステージを包み込んだ。

 興奮冷めやらぬ、サーカスからの帰り道。今夜のショウに満足した客たちは、口々に感想を語り合いながら足早に帰路につく。
 しかし、一組の夫婦だけは人ごみを避け、暗がりでじっと待っていた。子供たちの歓声が遠くなっても、それでもなお、待つ。
 やがて、暗闇の中にふと、男の顔が浮かんだ。相変わらず、赤いシルクハットを目深にかぶって目元の表情は見えないが、その口は、笑っていた。
 「お待たせ致しました」
 すでに、周りに他の人々の姿はない。サーカスの熱気は静かに冷めて、うっすらと肌寒い空気が三人を包み込んでいた。
 「レイチェル…約束のものを」
 マントをひるがえして彼が言うと、傍らの闇から、金髪の踊り子がこれまた唐突に現れた。その手には、見るからにずっしりと重量のありそうな革袋が握られていた。彼女がわずかに手を動かすと、かすかに金属が触れあう音が漏れた。
 「金額は、これぐらいでよろしいでしょうか?」
 「お…おぉ」
 中年の夫婦の表情が緩む。
 どちらからともなく足を進めて、カスタリアンの前に並んで立つ。
 「ありがとうございます」
 ためらいもなく、二人は手を差し出した。
 自分たちの、子供の代価を得るために。
 しかし、レイチェルは、袋を差し出さなかった。
 「あなた方は、何か勘違いなさっています」
 顔の見えない男は、笑みを浮かべたまま告げた。
 「わたしが何を買ったのか、ちゃんと理解しておられますか?」
 「…え?」
 間抜けにも両手を前に突き出したまま、中年の夫婦は呆然と彼を見つめ返した。
 子供なら、渡したはずだ。
 この男は、人買いではなかったのか?
 言葉にならない疑問に、カスタリアンは答える。
 「そう、わたしは人を買う。しかし、誰がいつ、お子さんを買うと言いましたか?」
 「な…に?」
 「わたしが買うのは、あなた方」
 闇の中に、赤いマントがひるがえる。シルクハットのつばに添えられた手は、白かった。
 「頂きますよ、約束通り」
 芝居がかった仕草で、大仰な動作で、シルクハットを脱ぐ。
 その下から現れた顔は――

 誰もいない、サーカスのテント。客席は沈み込むように暗く、ステージの上だけが、ランプに照らされてぼうっと丸く、明るい。
 「お疲れさま」
 その真ん中に立ち尽くす少年に、赤銅色の髪の女性が声をかけた。
 「…お姉さん」
 それは、先日、彼の売っていた木の実を威勢良く全部買い上げてくれた人だった。舞台に立っている時は興奮していてよく見ていなかったが、こうして近くに立つと、あの時の女性だとすぐに分かった。
 「僕は…あの」
 「今日のマジックショウ、手伝ってくれてありがとう。おかげで、いいステージになったわ」
 「う、うん」
 満面の笑顔で褒められて、少し照れる。
 実は、箱に入れられ、スカーフをかけられた途端に眠くなり、そのまま眠り込んでしまったのだ。気付いた時にはすべて終わっていて、ぽつんと舞台に取り残されていた。だから、褒められるのは、何だか恥ずかしい。
 「本当にありがとうね」
 だが、優しく、温かい笑顔でもう一度礼を言われ、今度は素直にうなずくことが出来た。
 「うん」
 肩に置かれた手も、柔らかく、温かい。
 少し安心して、少年は間近からファビエンヌの顔を見上げた。それから、その後ろの客席へ。
 もう、みな帰ってしまって、誰もいない。
 「ところで…お姉さん」
 彼はおずおずと口を開いた。
 「あの、僕の、お父…父と、母を知りませんか?」
 帰ってしまったのだろうか。僕を、置いて?
 あの二人ならあり得ないことではないが、折角一緒に来たのに、何だかとても寂しかった。そう思って彼女を見上げると、何故か彼女も寂しげな表情を浮かべていた。
 「ごめんね。その事で、君に伝えなくちゃいけないことがあるの」
 「えっ?」
 「落ち着いて、聞いて」
 薔薇色の口紅を塗った唇が、ゆっくりと動いた。
 「君のご両親ね…いなくなったの」
 何となく、分かっていた。
 そうでなければ、サーカスになど、連れてきてくれるはずがない。
 「借金、返せなくてね」
 「うん」
 少年は素直にうなずいた。自分の働きだけで、三人家族を支えていくことが無理なことぐらい、最初から分かっていた。借金は膨れ上がり、彼の想像を超える額になっているのも、予想がついていた。
 だから、両親は逃げたのだ。
 自分が売られなかっただけ、ましだと思わなければならない。
 「分かった…もう、いいよ」
 つぶやくように、答えた。
 分かってる。分かっていた――けれど。
 しゃがみこみ、膝を抱いてしまう。そのまま膝に顔を埋めて、少年は丸くなった。
 それでも、やっぱり、一人ぼっちになるのは…嫌だった。
 「そう…」
 背後から、彼女の声が優しく降ってきた。
 「でもね、もう一つだけ。聞いてもらえないかしら」
 少年は首を振る。だが、ファビエンヌは話すのをやめなかった。
 「ここからはちょっと遠いんだけど、ランバレーニっていう町、知ってる?」
 返事はない。だが、次の言葉は、少年を振り向かせるには十分だった。
 「そこに君のお兄さんがいるわ」
 「…!」
 驚いた顔が、彼女を見上げた。
 「わたしたちの次の興行場所、そこなんだけど。一緒に、行く?」
 「本当に?」
 少年は立ち上がり、飛びつかんばかりの勢いで彼女の前に立った。
 「お兄ちゃんがいるの?行って、いいの!?」
 「ええ」
 優しく両手を広げ、ぴょんぴょんと弾み出しそうな子供の肩をそっと抱く。そして、その耳元に、小さくささやいた。
 「大丈夫…今度は幸せにね」

 人間は、その人とまったく同じ姿形の人間を見ると、間もなく死んでしまうという。
 何故かというと、それは、ドッペルゲンガーという魔物が、人の姿を奪うから。
 顔を持たないが故に、顔を奪う魔物。
 ああ――目の前の青年が、まさに、それだというのか?
 父親は、震える体を支えるので精一杯だった。
 顔を覆う両手を、どうしても外せない。崩れていく顔を、もうこれ以上、支えていくことが出来ない。
 「ふふ」
 帽子を脱いだ男が笑う。その顔は、少年の父親と寸分違わぬものだった。
 「確かに頂きましたよ――あなた方の、顔」
 「あ……あ、あ、ぁ」
 がたがたと膝が笑う。耐え難い悪寒が、全身を駆け巡る。
 死が、もうここまで、来ている。
 「心配しなくとも、この金で借金は全部返しておきましょう…あの子のためにも、ね」
 その声が届いたか否かは定かではない。だが、父親はついに、失ってしまった顔を覆ったまま、膝をついて倒れ伏した。すでに事切れた妻の傍らに、寄り添うように。
 「似合うかな」
 声さえも、父親と同じ低くつぶれた声を出し、カスタリアンはレイチェルを振り返る。金髪の少女は、ゆっくりと首を左右に振った。
 「そうか…まぁ、いい」
 新しい顔をなでて、また帽子をかぶる。暗く、闇に沈んだ目元は、また誰の物でもない顔に戻っていく。口元だけが、笑う。
 「戻ろうか」
 レイチェルがうなずいた。
 踵を返す魔物たちの背後で、風が揺れた。存在の意味を失って転がるモノたちが、その風にあおられ、塵となって、消えていった。

 ありがとう、楽しかったよ。
 子供も大人も、笑顔で手を振る。驚きに満ちたショウを、夢のような時間をありがとう。
 みんなも喜んでくれて、今回の興行も大成功。
 こうして、サーカスは街を去って行く。
 それでは、次に会える日を祈って――皆様、ごきげんよう!


次回興行へ、続く。

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