エキセントリック・スーパーマジック・ショウタイム
「ヒトクイ」のお話。前編。


 空に舞うビラ、風船の花畑。
 来たよ、来たよ、この街にも。
 楽しいサーカス、それは一瞬の、けれどとてもステキな夢の時間。その夢が、永遠に醒めなければいい、なんて思ったりはしない?

 「みんな、喜んで!」
 いつもは物静かな孤児院のシスターが、その日は珍しく高い声を出して帰ってきた。
 「とっておきの、いいニュースがあるのよー!」
 「なになにー?」
 七人いる子供たちがわらわらと集まってきた。ヤンも、妹のキムの手を引いてシスターの方へと駆け寄る。
 「うふふ、教えて欲しい?」
 シスターは右手を背中に回し、何かを隠し持っているようだ。それを見ようとスカートにまとわりついてくる子供たちを反対の手であしらいながら、彼女はふふんと得意げな顔をした。
 「こらこら。悪い子にしてたら、教えてあげないんだから」
 「えーっ?何だよぅ」
 「見せて、見せてー!」
 「ふふふ…はいはい」
 優しい笑顔で、小さな封筒を目の前に差し出す。何の変哲もない、ぺちゃんこの茶色い封筒だ。子供たちの顔はみな一様にあっけにとられた表情になった。
 「これが、いいモノ?」
 大した何かが入っているようには見えない。
 「そうよ。とっても楽しいモノが入ってるんだからね」
 シスターはゆっくりと封筒に指を入れ、そこから中身を出した。
 紫色の紙に金箔が押された、きらびやかな細長い紙の束。子供たちには、装飾の多過ぎる金色の文字は読み辛いから、シスターは一つ一つ指で示しながら、読み方を教えた。
 「エキセントリック・スーパーマジック・ショウ」
 それだけ聞いても、何のことか分からない。
 まだ不思議そうな顔の子供たちに、彼女は尋ねた。
 「みんな、知らない?町外れの空き地にサーカスが来てるでしょう?」
 「……あ!」
 そういえば。
 何日か前に、派手な格好をした人たちが来て、たくさん風船とビラを配っていった。風船はもらったけれども、ビラは捨ててしまった。
 だって、サーカスの入場料って高価いから。
 孤児院の子供たち全員を連れていけるほど、この教会にお金はないから。
 「シスター!もしかしてそれ、チケット!?」
 「まさか、買ったの!?」
 たちまち子供たちの目の色が変わった。夢のチケットを見ようと、一斉に手が伸びる。引っ張られて破れてしまわないように、それをみなの手の届かない高い所へ差し上げて、シスターは言った。
 「こらこら。いい子にしてないと、連れて行ってあげませんよ?」
 「あっ…」
 「はーい!」
 こうなると現金なものだ。みんなすぐに手を引っ込めて、しかし期待に満ち溢れた眼差しで、シスターを見上げる。彼女は見せ付けるように、ゆっくりとチケットの枚数を数えて、みなを見渡した。
 「これはね、サーカスの団長さんが下さったのよ。みんなを招待してくれるんですって」
 顔立ちの整った、けれどどこか印象に残らない不思議な雰囲気の団長は、先刻、ふらりと教会を訪れたのだ。そして、シスターが一人で孤児院と教会とを切り盛りしていると聞くと、にっこりと微笑んで封筒を置いていった。
 チケットは八枚。七人の孤児たちと、シスターの分まできっちりと揃っていた。
 「だから、いい子に出来ない子は、連れて行けません。ご招待なんだからね」
 神様と、神様のように優しい団長に感謝の祈りを捧げながら、彼女はしっかりと言い聞かせる。子供たちは、一も二もなくうなずいた。
 「よーし。それでは、明日はみんなをサーカスに連れて行ってあげます」
 「わーい!」
 「やったあァ!」
 古びた教会の中、子供たちは喜び勇んで走り回った。あんまり暴れると、床が抜けるかもしれないので、シスターはぴしゃりと彼らを叱りつけた。
 「こら、そこ、走り回らない!今日は洗濯して早く寝なさい!明日は一番いい服を着ていくんだからね!」
 「はーい!!」
 わあわあと甲高い叫び声を上げながら、子供たちは礼拝堂から出て行った。ヤンとキムの兄妹をのぞいて。

 ヤンとキムは、この世でたった二人だけの兄妹だ。
 故郷では裕福な商人の子供だったけれど、こっちの国ではただの孤児だ。嵐が来て、船が沈んで、大人たちはみんないなくなってしまったから。
 板切れにつかまって、何とか港に流れ着いたところを拾われて、二人はこの孤児院へと連れられてきた。シスターは優しい。彼らより前にいた五人のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちも何くれとなく良くしてくれる。居心地は悪くなかった。
 ただ、言葉が分からない事をのぞいては。
 あまりに遠い国からきたために、ヤンとキムは、周りのみんなが何を言っているのか分からなかったのだ。もちろん、自分たちが話す事を理解してもらう事も、出来なかった。
 今だって、みんながとても楽しそうにしているのは分かるけれど、何がそんなに楽しいのか、あの紫色の紙切れが何なのか、さっぱり分からない。
 「ヤン、キム」
 二人と視線を合わせるために、シスターは膝を折った。
 「大丈夫よ」
 ゆっくりと、言葉を教えるように話しかける。
 だいじょうぶ。これは、分かる。まだわずかだが、こちらの言葉も理解できるようになりつつある。ヤンは、うなずいた。
 「明日、サーカスを見に行くの。サーカスって、分かるかしら?」
 あした、いく。
 「…さーかす?」
 それが、みんながあれ程はしゃいでいる理由なのだろうか。幼い兄妹は顔を見合わせて、首を傾げた。
 「行ったら、分かるわ。とても楽しいの。ヤンも、キムも、きっとニコニコするわ」
 たのしい。たのしいところへ、いく。にこにこする。
 キムがまず先に理解して、にこっと微笑んだ。ヤンも同じだ。
 「いく、キムもいく」
 「ええ、そうよ」
 二人の頭をなでながら、シスターも笑った。
 サーカスでは言葉は関係ない。だからきっと二人とも、心の奥底から楽しめる。

 息もつかせぬ展開で、次々と繰り出されるショウの数々。それは、たちまち子供たちの心を鷲掴みにした。
 きらびやかな衣装をまとったダンサーたちの美しさに見惚れ、ジャグラーの投げるナイフの軌跡にひとつひとつ心を突き刺される。猛獣たちの咆哮に、言い知れぬ恐怖と興奮も味わった。
 これがサーカス。なんて、なんて楽しい…!
 ヤンとキムはお互いの手を握りしめたまま、身を乗り出すようにステージを見つめ続けていた。それは他の子供たちも、シスターさえも虜にしていた。
 何もかも、忘れてしまう。
 孤児院での、貧しく苦しい暮らしも、言葉が通じない悔しさも、寂しさも。
 ただ、見ているだけなのに、こんなにも楽しい世界があるものか。
 握っている小さな手の感触さえもおぼろげになるほどに、子供たちはただひたすら、見つめ続けた。
 だが、楽しい夢は、必ず醒める。
 ふと気が付けば、ショウは終わっていた。灯りの落ちたステージに、客席がざわめく。帰り道を急ぐ人々の群れが、テントの中をゆっくりと動き始めていた。
 あぁ…もう、帰るんだ。あの、古びた教会へ。冷たく固い木のベッドへ。
 隣の子供が立ち上がったのについて、ヤンも立ち上がった。キムが小さくいやいやをするが、いつまでもここにはいられない。妹の手を引いて、兄は出口へ向かう人波へと加わる。
 「さ…帰ろ?」
 「うん」

 しかし、子供たちは、シスターの元へたどり着く事は出来なかった。
 隣にいた子供が孤児院の仲間だと思っていたのに、ふと見たら知らない顔で、知らない大人に抱かれて行ってしまった。
 「しすたー」
 振り向いても、目を凝らしても、どこにもシスターは見当たらなかった。気が付けば、知らない人たちばかりが、二人の周りを通り過ぎていく。
 「しすたー」
 キムが小さく、不安げな声を出した。ヤンはその手を強く握り、自分自身も泣きそうなのをこらえて歩き出した。
 「探せばいいさ。ちょっとはぐれちゃっただけだよ」
 「…うん、お兄ちゃん」
 にっこりと笑う兄の顔を見上げて、少女もほっとしたようにうなずく。
 大丈夫。あの嵐の海も、この笑顔に守られていたからこそ、自分は生きてこられたのだ。
 手に手を取って、小さな兄妹は歩き出した。とりあえず、煌々と灯りのきらめく、明るい方へと行ってみる。そこにシスターたちがいないと分かると、今度は逆の方角へ。
 だが、それはただ、時間を浪費したに過ぎなかった。そうこうしているうちに、テント前の広場からは、どんどん人の気配が消えていく。
 「お兄ちゃん」
 まさか。
 満月に照らされた広場の中には、もう誰もいない。
 「ねぇ、お兄ちゃん…!」
 今にも泣き出してしまいそうな妹の声だけが、静かに響いた。まだこの町のこともあまり知るはずのない二人には、帰り道も分からない。キムは握りしめた手に力を込めて、必死で辺りを見回した。
 どうしよう…?
 人気のない広場に、暗い影となってそびえ立つサーカスのテントが、頭上から覆い被さり、襲ってくるように見えた。
 「誰か…」
 とにかく、誰でもいいから、誰か。
 「ねぇ、誰か…誰か、いないの?」
 細い声で、彼は尋ねた。
 「誰か」
 答えがあった。
 「そこに…誰か、いるのか」
 「うん、いるよ!」
 すがりつくように叫ぶ二人に、その声は笑ったようだった。
 「そうか…では、こっちへ来るといい」
 ステージのある大きなテントではなく、その脇に立ち並ぶ小さなテントから、声は二人を呼んだ。二人と同じようにどこかほっとしたような、しかし、低く、辛そうな声が。

 しんと静まり返ったテントの中に、声の主は繋がれていた。
 鎖で手足を縛られて、猛獣を入れるような大きな檻の中に閉じ込められている。ぼさぼさの青い髪を揺らして顔を上げ、大柄な男は小さな兄妹を見上げた。
 明らかに尋常ではないその様子に、二人はおずおずと声をかけた。
 「ど…、どうしたの、お兄さん」
 「ふふ」
 自嘲気味に笑って、男は首を振る。
 「ちょっと困ってるんだ。助けてくれないか」
 そう言ってうずくまっていた体を起こすと、重い鎖がじゃらじゃらと鳴って、窮屈そうな男をさらにきつく締め上げた。
 「どうすればいいの?」
 「なに、そんなに大変なことじゃない」
 すだれのように垂れ下がった前髪の隙間から二人を見ながら、青年は言った。
 「腹が減って死にそうなんだ。水と、食い物…それだけ持って来てくれれば、いい」
 辛そうに見えるのは、繋がれているからではなくて、空腹のせいなのか。ヤンとキムは納得し、顔を見合わせた。
 迷子になっている自分たちも大変だが、それ以上に目の前で動けないほどにお腹が減っているこの人を助ける方が先決だ。
 「それはどこにあるの?」
 「水は外。手桶に一杯でいい」
 「ご飯は?」
 「その辺にあるはずなんだがな」
 男はまた首を振った。汗に濡れた前髪がさらに垂れて、彼の表情を隠す。
 「じゃああたし、お水持ってくる」
 その様子をじっと見つめていた妹が言った。それに応えて、兄もうなずいた。
 「じゃあ、僕がご飯探すよ」
 「うん!じゃ、行ってくるね」
 「悪いな」
 駆け足でテントを出て行くキムを見送り、男は低くうなだれてつぶやいた。
 「ん?お兄さん、何か言った?」
 明るく尋ねるヤンの目の前で、ふいに赤い光がきらめいた。
 「いや。ただ、もうちょっとこっちへ来てくれないか、ぼうず」
 「うん」
 素直にうなずいて、少年は一歩檻に近づく。
 次の瞬間、ヤンは、今日見たどんなサーカスのショウよりも衝撃的な出し物を見せられる事になった。
 人が、狼に変わる瞬間を。
 鎖をちぎり、檻を破り、その爪が、牙が、自分に向かって繰り出される瞬間を。


続く

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