エキセントリック・スーパーマジック・ショウタイム
「ジンブツガ」のお話。後編。


 赤銅色の長い髪に、鮮やかな緑の瞳を持つ彼女は、その美しさゆえに、この大きな街でも知らない人はいないほどに有名な人物だった。
 もちろん、美しいだけではない。その性格は慈愛に満ち溢れ、誰にでも公平で優しく、けれども悪には敢然として厳しい。まさに、理想の人間を絵に描いたかのような女性だった。
 その名は、ファビエンヌ・クールナ。
 当然のことながら、彼女を妻に、と望む若い男性は、町中にあふれ返っていた。若き日のロギンス卿もそのうちの一人だった。
 しかし、彼女は、誰の誘いにも、決して首を振ることはなかった。
 聖女ファビエンヌは、神にその身を捧げた修道女だったのだ。

 「では…どうあっても、わたしの申し出は受けては頂けないのですね」
 ロギンスはがっくりと肩を落とした。
 「申し訳ございません」
 ステンドグラス越しに、夕方の赤い光が床に模様を描く。礼拝堂には、ロギンスとファビエンヌの二人だけが立ち尽くしていた。
 「ロギンス卿のお気持ちは、大変ありがたく存じます。けれども、私のこの身は神に捧げると誓いをたてたのです。誰かの妻になることは、出来ないのです」
 長い、長い沈黙。うなだれた花束から、小花が一つ、床に落ちた。
 「……分かりました」
 やがて、青年は意を決したように顔を上げた。
 「これ以上は、あなたを困らせるだけ。それは本意ではありません。ですが」
 花束を抱えなおし、彼は言った。
 「一つだけ、わたしのわがままをお聞き届けください」
 「私に出来ることならば、何なりと」
 温かく柔らかな光に包まれた、神々しいまでに優しい笑顔。この笑顔を自分だけのものにしたかった。ロギンスは、ただそれだけを胸に抱いて、願いを口にした。
 「あなたの肖像画を描かせて欲しいのです」
 「肖像…画?」
 「あなたがわたしのものにならないのならば、せめてその写し身だけでも。叶いませんか?」
 真摯な思いを受け取って、聖女ファビエンヌは微笑んだ。
 「分かりました。それでしたら、喜んでお受けいたしましょう」
 ロギンスは、まるでプロポーズが成功したかのように喜んだ。

 それからしばらくの後、街の中は、とある噂でもちきりになっていた。
 聖女ファビエンヌと、資産家の跡取り息子ロギンスが、婚約したという噂だ。
 あの身持ちの固いファビエンヌが、足しげくロギンスの館に通っているというのが、確たる証拠だという。
 その噂を耳にしながら、ロギンスは至福の一時を過ごしていた。
 「それでは、今日もよろしくお願いいたします」
 そう言って頭を下げ、ファビエンヌはロギンスの目の前のソファに腰掛る。
 「こんな感じでしたかしら?」
 「もうちょっと、ゆったりと肘掛にもたれて…そう、それでお願いします」
 座り直す彼女にいくばくか指示を出して、画家が絵筆を取った。
 「では、始めますね」
 静かな部屋に、絵筆を走らせるかすかな音が響き始める。
 そう、噂はあくまでも噂で、真実ではなかった。彼女がロギンスの館に来るのは、絵を描いてもらうためだけだ。
 それでも、この間だけは、ファビエンヌはロギンスのためだけに微笑んでくれる。彼のためだけに、ここに居てくれる。それは決して長い時間とは言えなかったが、それでも十分過ぎるというものだ。
 街でささやかれている噂も相まって、彼はこの上もなく幸せだった。
 「少し、立ち上がってもよろしいですか?」
 時折、同じポーズを続けているのが苦痛になるのか、ファビエンヌが困ったように言うのも、普段ならば見られない姿だ。
 「では、お茶にしましょうか。君も休んでくれたまえ」
 「はい、ありがとうございます」
 大金をはたいて雇った画家の腕が良いのも、非常に喜ばしいことだった。
 「私も絵を見せて頂いてよろしいですか?」
 「ええ。かなり出来てきましたよ。どうぞご覧になって下さい」
 画家がイーゼルの前から退く。ロギンスとファビエンヌは、並んでキャンバスをのぞきこみ、それぞれ驚嘆と満足のため息をもらした。
 「あの…私、こんなに綺麗に描いてもらってよろしいのでしょうか?」
 ソファに腰掛けて微笑む修道女は、これ以上はないというほど美しく、そして優しく描かれていた。
 「まだ足りないぐらいですよ。あなたは、本当に美しい」
 「そんな…お上手ですわ」
 ファビエンヌは照れたように頬を染めてそっぽを向く。
 だが、とロギンスは改めてキャンバスに顔を向けた。
 肖像画は九割方出来上がっている。素人目に見ても、すでにモデルがいらないほどに出来上がっているのは見て取れた。後は最後の仕上げをするだけなのだろうが、雇い主の意を汲んだ画家が、モデルが必要だと言ってくれているだけなのだ。
 出来上がってしまえば、約束の期間は終わる。
 彼女はもう、ここには来てくれなくなる。
 複雑な思いで絵を見つめる青年の胸中を知ってか知らずか、ファビエンヌがぽつりと言った。
 「もうすぐ、ですわね」
 振り返ると、彼女はいつもの様ににっこりと、楽しげな笑顔を浮かべていた。
 「本格的に仕上がるのはいつ頃になるんでしょう?楽しみですわ」
 心の底から嬉しそうにそう言う彼女に、他意などない。青年のたっての願いが叶うことを、ただ素直に喜んでくれているのだろう。
 「……そうですね」
 ロギンスはうなずいた。
 何があっても、決して振り向いてはくれない女性なのだ。
 「長い間、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。ですが、あと少しだけお付き合いください」
 「はい。喜んで」
 どこまでいっても、満たされない想いが残るだけ。
 例え聖女と呼ばれようとも、たった一人の心さえ、救うことは出来ないではないか。
 苦い思いを噛み殺し、彼は笑った。

 肖像画の制作は、いよいよ最後の仕上げに入った。
 画家はアトリエに一人閉じこもり切りになり、食事さえも取らずにずっと描き続けているようだった。
 絵筆を走らせるかすかな音を聞きながら、ロギンスは廊下をうろうろと行ったり来たりする。
 これが出来たら。出来てしまったら。
 最後に一度だけ、完成した肖像画を見るために、ファビエンヌはここに来てくれる。そして、それきり、二人はただの他人に戻る。
 それならばいっそ、と思わないではない。いっそ、この館に閉じ込めてしまえば、二度と帰さなければ、無理矢理にでも抱いてしまえば。
 現実離れした妄想が、青年を苛んでいた。
 「…そんなこと、出来るわけがないじゃないか」
 何度頭を抱えたことだろう。どれだけ苦しんだことだろう。
 いつの間にか廊下で眠り込んでしまった彼は、真夜中にふと、目を覚ました。
 館の者が掛けてくれたのであろう毛布を弾き飛ばして、そっとドアに耳をつけてみる。
 「………」
 物音は、何一つ聞こえなかった。ひっきりなしに聞こえていた絵筆とキャンバスがこすれる音も、画家の息づかいも、何一つ。
 出来たのか?それとも、彼も疲れ果てて眠っているのだろうか。
 ロギンスは息を殺してノブを回した。静かに扉を押し開くと、何故かアトリエの中は暗闇に包まれていた。
 「…どうした?」
 絵を描いていたなら明るくなければならないはずなのに、テーブルの上には今にも消えてしまいそうな弱々しい蝋燭の炎が一つ、灯っているだけだった。
 「おい…誰もいないのか」
 何か、恐ろしく嫌な予感がする。青年はわずかな明かりを頼りにテーブルに近づき、すぐ側にあったランプに火を入れ、振り返った。
 「これは」
 絵はあった。画家もいた。見慣れたアトリエの中には、いつも通り絵の具の匂いが立ち込めていた。
 だが、決定的に違うことが、二つあった。
 「これは、何だ?」
 キャンバスに描かれていたのは、地味な背景とソファだけ。聖女の肖像は、どこにもない。
 そして、床に倒れ伏していた画家は、冷たく変わり果てていた。
 「おい!一体、何があった!?」

 深夜の繁華街に、彼女は唐突に現れた。
 いつもと同じ修道服で、しかしいつもと違う妖艶な笑みを浮かべて、彼女は男たちを誘った。大勢の男たちに次々と抱かれ、喜悦の表情を浮かべながらその精を吸い取り殺してゆく。
 妖婦だ、と誰かが言った。貞淑な聖女が、淫乱な妖婦に変わった、と。
 ここは大きな城下町、人々の噂はあっと言う間に広がって、誰もそれを知らない人はいなくなる。一晩のうちにそれは街中に知れ渡り、翌朝にはロギンスの耳にも届けられた。
 まさか、とは思った。だが、空っぽになったキャンバスと、生命を吸い尽くされたかのように枯れ果てた画家の亡骸を見れば、それを認めないわけにはいかなかった。
 「わたしの欲望が」
 ロギンスは、妖婦ファビエンヌを探して繁華街へと走った。
 「肖像画を、魔物に変えてしまったとでもいうのか!」
 この手に抱きたかった。自分のものにしたかった。
 神のものである聖なる女性に、邪な思いを抱いてしまった罰だとでも言いたいのか。
 片手に背景だけの肖像画を下げて、彼は探した。繁華街を、市場通りを、庁舎前の広場を、人の多く集まりそうな場所をくまなく回ったが、それでも見つけられない。
 「まさか」
 やがて傾きかけた夕日の中で、ロギンスは絶望と共にその場所を振り返った。
 赤く染め上げられた教会の尖塔から、夕刻を告げるはずの鐘の音が響いて来ない。
 「ファビエンヌ…」
 今となっては、あまりにも恐ろしくて近づけないその場所へ、自らの罪を悔いるために、行くしかなかった。

 紫煙がゆっくりたなびいて、殺風景なキャンバスを少しずつ傷めてゆく。
 声も出ない青年の前で、ファビエンヌは微笑み、キャンバスの中へと戻っていった。ふと見れば、ソファだけの寂しい絵はそこにはなく、艶然と微笑む修道服姿の美女の肖像画が置いてあった。
 「あなたが、その絵」
 「そうよ」
 額縁から半身を乗り出して、煙草を吸いながら彼女は言う。
 「ロギンス卿によって生み出された魔物。妖婦ファビエンヌの肖像画なのよ」
 自嘲気味に笑って、絵の縁でキセルを叩いて灰を落とす。
 「最後に聖女ファビエンヌを殺して、わたしはわたしを仕上げたの。どう?面白い話だったでしょ?」
 「そんな…」
 想像していたような甘いロマンスなど、欠片もなかった。愕然と肩を落とす青年に追い打ちをかけるように、ファビエンヌは言った。
 「それとも、坊やにはちょっとキツかったかしら」
 意地の悪そうな笑み。彼は、肖像画に背を向けた。
 「僕…もう、帰ります」
 「そうね」
 あっさりと彼女は言い放つ。だが、その声色がふいに変わった。
 「でも、一つだけ、ロギンス卿に伝えてもらえないかしら」
 「何をです?」
 「わたしが生まれたのは、決して、ロギンス卿一人だけの責任ではなかったのだと」
 青年が振り向くと、彼女は視線をそらして答えた。
 「聖女ファビエンヌは…本当は、卿を愛しておりましたと」

 神に捧げたはずの心が、彼女を裏切った。
 ひたむきな愛を贈られて、いつしか彼女は、彼を愛していた。だが、それを認めることは出来なかった。信仰を捨てて、彼のもとへ飛び込む勇気がなかった。
 募る想いは描きあげられる自らの写し身に宿り、行き場のない思いが魔物と化す。
 だから、妖婦ファビエンヌは自らの手で聖女ファビエンヌを殺した。
 「もしもまだ、あの時のことを卿が気にしているのなら、そう伝えて欲しいの」
 そう言って、絵の中の女性はにっこりと微笑んだ。
 「あなたは」
 一歩、青年が近づく。それよりも早く、彼女の手の中のキセルがきれいな弧を描いた。
 「最後にあなたに会えて、良かった」
 こつん、と小さな音がして、まだ赤みを帯びた灰が、キャンバスの片隅に叩き付けられる。
 「やめるんだ!」
 赤い髪の修道女は、優しい聖女の笑みを浮かべたまま、絵の中へと戻っていく。それを待っていたかのように、油絵の具が一瞬で燃え上がる。
 「くそっ…誰か!」
 青年はキャンバスを地面に引き倒し、上着をかぶせた。
 「誰か来てくれ!彼女を、助けてくれ!!」
 サーカスに、悲痛な声が響いた。

 そして一月がたって、サーカスはこの街を去った。
 窓から見える空き地に極彩色の旗はなく、老人の手元には、焼け焦げた額縁だけが届けられた。
 「そうか…そうだったのか」
 「すみません。僕が無理に話を聞きだしたりしなかったら、彼女が燃えることもなかったはずなのに」
 幸いにして全焼こそ免れたが、元通りの美しい姿に修復されるには時間がかかるという。おそらく、老人の余命は、それには間に合わない。
 「いや。それで良かったんじゃ」
 慈しむようにレリーフの模様を指でたどり、しかしロギンスは満足そうに微笑んでいた。
 「わしとファビエンヌは愛しあっていた。それだけ分かれば十分じゃよ」
 「でも」
 「そうでなければ」
 黒い煤が手につくのも構わず、額縁を両腕に抱いて、彼は言った。
 「マーサに…お前の祖母さんに、会わせる顔がないじゃないか」
 過去の清算は済んだ。最後まで愛していたのは妻だった。
 夢のように楽しかったサーカスが去った後には、自分の家に、家族のもとに帰ればいいのだ。
 老人は目を閉じて、ゆっくりとベッドに横たわる。
 「じゃが、サーカスの舞台を見られなかったのは、少々惜しかったの」
 そう。それで、いいのだ。


次回興行に、続く。

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