青い空を見上げて、彼女は一日のほとんどを過ごす。どこか焦点のあっていないような青い瞳は、ただの鏡のように空の色を映しているだけのようにも見える。
「レイチェル」
名前を呼ぶとこちらを向くが、ただ、それだけだ。
団長からのお墨付きもあり、暇さえあればサーカスに入り浸って彼女と接している青年だったが、ここまで反応に乏しいと、さすがに不安を感じずにはいられなかった。
「今日は…練習はしなくていいのかい」
こくり。
そのまま、また、長い長い沈黙が続く。
青年は、じっと彼女の横顔を見つめながら、考えていた。
もしかして、ただ単に口がきけないのではなくて、別の理由があるとしたら?
無遠慮にじろじろと眺め回しても、それを気にもしない彼女。普通の人間なら、どんなに感情表現のない人間でも、何かの反応があるだろう。ましてや若い女性なら、いつも隣にいる男に対して、好きか嫌いかぐらいの感情ぐらいは抱くに違いない。
だが、そもそも彼女に、意思というものがないのだとしたら。
人間としての心が壊れているのだと、したら?
彼は、足元の小石を拾った。しばらく指先で弄んだ後、彼女に向かって軽く放ってみる。小石は彼女の膝に当たり、小さな音を立てて地面に転がった。
案の定、彼女は避けなかった。当たったからと言って、こちらを見ることもない。壁に小石を当てたのと同じように、レイチェルはぴくりとも動かなかった。
やはり、間違いない。それならば。
「レイチェル」
彼は立ち上がりながら、彼女の名前を呼んだ。
「この街で公演していくのは、確かあと五日ほどだったな」
こくり。
尋ねられたことに明確な答えが存在するので、彼女はうなずいた。
「公演が終わるのは夜だよな…それじゃあ、次の日の朝にテントをたたんで出発する、ってワケか?」
こくり。
「それじゃ」
青年は振り向いた。座ったまま彼を見上げる少女に顔を近づけ、無垢な瞳を覗き込みながら、教え込むように彼は言った。
「いいか、これから俺が言う事は、お前への命令だ。絶対に、聞くんだぞ?」
こくり。
「公演が終わって、夜になって、みんなが寝てしまっても、お前は寝るな」
こくり。
「誰にも気付かれないように、こっそりとサーカスを抜け出して来るんだ。出来るな?」
こくり。
彼女は、明らかにおかしな要求にも、黙ってうなずく。言われた事を覚えようと、じっと青年の瞳を見つめ返してくる。
「三番通りの噴水の前だ。分かるか?そこへ、来るんだ」
そこは、彼女と彼がぶつかった曲がり角のすぐ近く。覚えているのかいないのかは分からないが、レイチェルはしっかりとうなずいた。
「絶対に、来るんだぞ。命令だからな?」
こくり。
玩具のように首を振る彼女を見つめながら、青年もうなずいた。
「じゃあ、俺はこれで帰る。今度会う時は、噴水の前だ」
そう言い置いて、彼は背中を向けた。
俺の考えが正しいのなら、これでいいはずだ。
どこかで聞いた事がある。
人の心を支配し、意思を奪ってしまう邪悪な魔法があると。呪われた人間は生きた人形と化し、人の言うままにしか動けなくなる。
ちょうど今、目の前にいる、美しく愛しい娘のように。
「必ず来いよ……お前を助け出してやるからな」
華やかなステージが終わる。
いつにも増して気合の入ったサーカスの舞台は、熱狂的な拍手と歓声に包まれて幕を閉じた。
だが、終わった後の寂しさは、いつもと変わることはない。特に、最後の日はそうだった。夜が明ければ、せっかく慣れてきたこの街にも別れを告げて、新しい場所へと旅立っていかなければならない。
それを、どれだけ繰り返した事だろう。
だが、そんな感慨も、彼女にはなかった。
青い目を見開いてただその時を待ち、言われたことを実行するだけだ。テントの前に立って空を見上げていたレイチェルは、満月が中天にかかるのを見て、一人うなずいた。
みんなが寝静まったら、ここを出て、三番通りの噴水の前へ行く。
ぜんまい仕掛けの人形のようにくるりと踵を返すと、レイチェルは歩き始めた。その足音は規則正しく、きっかりと同じリズムを刻んだ。草を踏む音も、石畳を鳴らす音も、何の遠慮もなく夜の闇に響かせて、ただひたすら目的地へと向かう。
誰が待っているかなど、関係なかった。
ただ、与えられた命令を実行する。それが、目的なのだ。
静まり返った街路に、驚くほど大きな靴音を響かせて、彼女はやって来た。
真夜中なのだから多少なりとも足音を忍ばせるという、ごく当り前の配慮すら見せないその様子に、青年は自らの予想が当たっていた事を確信した。
やっぱり間違いない。彼女は、誰かに操られているのだ。
「レイチェル」
目の前で立ち止まった少女の肩に手を置き、彼は言った。
「よく来てくれた…良かった」
レイチェルはうなずき、くるりと背中を向けた。
「おっと。まだ帰っちゃダメだ。まだ、用事があるんだから」
言われた事をやり遂げたら、元の場所に戻る。これまた思った通りの行動に出た彼女の手を握りしめ、その体を引き寄せて、抱きしめた。
「心配しなくていい。お前に悪いようには絶対にしない。だから、俺の言う事を聞いてくれ」
しっかりと抱きすくめられているせいか、肯定のうなずきがなかった。だが、それには構わず、青年は続けた。
「お前の呪いを解いてもらえるように、魔術師ギルドには話をつけてある。お前は、一緒に来てくれるだけでいい」
小柄な体を力任せに抱き上げ、彼は歩き出す。きょとんとした青い瞳が、目の前の顔を見上げた。
「大丈夫だ。俺が、お前を元に戻してやる」
もとに。
唇の動きをなぞって、レイチェルが言葉の出ない口を動かす。
「そうだ。安心して、任せろ」
もとに。
もう一度繰り返し、彼女はさらに顔を上げた。彼の肩越しに、夜空を見上げる。
二人の頭上には、雲ひとつない星空と、まぶしく輝く白い月。
それが、ふいにかげった。
「本当に?」
どこかで聞いたような、しかし初めて聞くような、若い男性の声。
「本当に、あなたが彼女を元に戻せると?」
振り返ると、辺りは一面の闇に包まれていた。石畳も噴水も、夜空の月も星も消え失せて、ただ真っ黒な背景の中に、三人はいた。
「それが本当ならば」
闇のように赤いマント、目深にかぶった赤いシルクハット。そのひさしをわずかに持ち上げると、衛兵の青年とまったく同じ顔がのぞいた。
「わたしがこんなに苦労する必要はないのですけれども」
「お前は……団長ッ!」
どのようにして彼の顔に成りすましたのかは知らないが、不必要なまでに派手な出で立ちですぐに分かる。青年は怒りも露に目を吊り上げた。
「やっぱり魔法使いだったんだな!」
抱き上げていたレイチェルを足元に下ろし、背後にかばって彼は言った。
「彼女をこんな風にしたのは、お前だろうが!それを、何ワケの分かんねぇこと言ってやがる」
「おやおや」
不気味な男は、彼の顔を真似したまま薄ら笑いを浮かべている。
「わたしは本当のことを言っているだけですよ。あなたがやろうとしている方法では、彼女は変わらない、とね」
「ほざけ!この、悪党が」
青年は、腰の剣を抜いた。
いつも使っているものとは違う華奢な見た目の剣だが、魔術師ギルドから借りてきた魔法のアイテムだ。ある程度の魔法なら、剣が吸収してくれる。こういう事態も想定して、ちゃんと手は打っておいたのだ。
「お前を倒して、彼女を元に戻す。覚悟しやがれ!」
一歩踏み出すと、サーカスの団長は真顔に戻って一歩引いた。
「仕方がありませんね」
顔が見えない位置まで帽子を引き下ろす。猛獣たちを従える黒い革の鞭を取り出して、カスタリアンは唇を結んだ。
「口で言っても分からないのなら、その目で見ていただくまでのこと」
手首をしならせ、鞭を高く鳴らす。その瞬間、後ろに追いやられて呆然と立ち尽くしていたレイチェルが、顔を上げて団長の方を見つめた。
「これから始まるマジックショウ…何が起こるか、よく、見ておくのですよ」
青年は、我が目を疑った。
こんなことは、あり得ない。それとも、これも魔法なのか。幻術にでもはめられているのか。
彼の目の前で、レイチェルは微笑んでいる。ステージに立つ時と同じ、仕事用の愛想笑いに間違いないが、確かに彼女はここにいて、青い目を瞬きさせている。
それなのに、こんな事があり得るのか。
青年は、ゆっくりとレイチェルの笑顔を拾い上げた。
そう――今、彼の手の中にあるのは、彼女の首から上だけ。
残りの体は、カスタリアンが鞭を振るった瞬間に、バラバラの部品になって、散らばってしまったのだ。棒切れのように、手や足や胴体はその辺りに転がっているのだ。
「レイチェル」
彼のつぶやきに応じて、彼女がまたにっこりと笑う。
「もとより人ではないものを」
そういう声が、どこか遠くの方から聞こえてくるような気がする。
「一体どうすれば、人に戻せるというのです?」
暗闇の中、シルクハットの男は大きなトランクを取り出してみせた。呆然と見つめる目の前で、手袋をはめた白い手が、慣れた手つきで人形の部品を拾い上げる。彼女のためにあつらえられた羅紗張りのトランクの中に、それはきっちりと収まった。
「さて」
最後に白い手は、青年が両手に捧げ持った首を指差した。
「望みとあらば、それは差し上げましょう。ただの、人形の首、ですが」
人形の、首。
言われるがままに、彼は手の中のモノを見る。
美しい顔をしてはいるけれども、これは最初から、人間ではなかったのだ。
人間によく似た人形に恋をした――バカな、俺。
のろのろと首を振り、彼はシルクハットの男を見上げた。
「それでは、ここへ」
うなずいて、手を伸ばす。微笑を浮かべたままの首をトランクの真ん中に収めて、彼は蓋を閉めた。そのまま、くるりと背を向ける。
その背中にかけられる声があった。
「愛してくれて、ありがとう」
小さな鈴を鳴らすような、可憐で消え入りそうな声。
振り返ると、そこには月明かりに照らされた街路があるだけだった。
大きな荷物を背負った馬車が連なって橋を渡り、次の街を目指して遠ざかってゆく。大きな事故も混乱もなく、無事に興行を終えたサーカスの一団を見送って、街の衛兵たちはいつもの仕事に戻り始めた。
「ところで、いいのか?」
帰り道、一人が傍らの同僚に声をかけた。
「お前、あのサーカスに、好きな女の子が出来たんじゃなかったのか?」
「ん?」
彼は首を傾げる。
「俺、そんなこと言ったっけな」
「毎日入り浸ってたくせに、よく言うぜ」
「それがな」
青年は、苦笑した。
「他のヤツにもそう言われたんだけど、実はな…よく覚えてないんだよ」
「はぁ?」
「そんな事があったような気もするけど、ないような気もする」
何かあったとしたら昨日の夜だったような気もするが、サーカスの事も、女の子の事も、まるで記憶になかった。ただ覚えているのは、ふと気がついたら、真夜中なのに何故か路上にさまよい出ていたことぐらいだ。
そう言うと、同僚はため息をついて笑った。
「お前、そりゃ、疲れてんだよ。早く嫁さんもらった方がいいんじゃないか?」
「…そうだな」
彼はうなずいた。
「おい、お前」
友人の言う通り、きっと、疲れているのだろう。
「……何、いきなり泣いてんだよ」
そうでなければ、理由もないのに、涙が出たりするはずもない。
「すまない」
何故か止まらない涙をごつい拳で乱暴にぬぐって、青年は振り返った。
サーカスの馬車は、もう見えなかった。