エキセントリック・スーパーマジック・ショウタイム
「ヒトとマモノ」のお話。その3。


 湿気を含んだ、生ぬるい風が吹く。額ににじむ嫌な汗を拭う事も出来ずに、人と魔物はお互いの顔を見合わせていた。
 「それで、三年」
 「あなたは酷だと言ったけれども」
 カスタリアンは静かに話し続けた。
 「目の前で助けたばかりのものを、またすぐ引き離すのも如何なものか。それこそ本当に、彼女の心を打ち砕きかねないと思ったのです」
 これ以上、彼女が泣くのは見たくない。
 だからといって、いつまでも指をくわえて眺めているのにも耐えられない。
 「お前なりに、レイチェルのことを考えた……とでも言いたいわけか」
 老人の目が細くなった。顔のない魔物の表情を忌々しそうに睨みつけ、吐き捨てる。
 「それなら!どうしてレイチェルをこんなモノにした!」
 指差す先は、当然彼女だった。
 「笑っていて欲しかったんじゃなかったのか!?泣かなければ、それで良かったのか!?」
 「だから」
 あくまでも静かに、カスタリアンは答える。
 「わたしのせいだと言っている」
 薄い唇はあまりにも重く、わずかに動かすのさえも億劫なように見えた。それでも一言ずつ刻むように、彼は言葉をつないだ。
 「やっとわたしの元へ来てくれたのだから、もっと待てば良かったのに」
 雲が流れていた。星は隠れ、夜空を仰いだ青年の顔も暗く沈む。お互いに、表情は見えなかった
 「わたしはね」
 その口調は穏やかだった。
 だが、ユーゴスとファビエンヌは、驚きに目を見張った。
 「抱いてしまったのですよ、彼女を――それも、無理矢理にね」
 固く握りしめた青年の拳から一筋、人でないモノの、それでも人のように赤い雫がこぼれ落ちてゆく。
 「レイチェルの体を人でないものに作り替えた。これで自分のものになったと、愚かにも勘違いをした」
 爪が、深く、どこまでも深く食い込んでいく。あふれ出すものは止まらない。
 「最後まで、あなたの名前を呼んでいた……何度も謝罪の言葉を口にしていた。気付いたら」
 腕の中の少女は、虚ろな瞳をしていた。
 名前を呼んでも返事もない。何もかもをどこかに落として、ただ呆然としていた。
 いつ、その心を手放してしまったのか。
 そしてそれは、一体どうすれば取り戻せるのか。
 「だからわたしは、彼女を連れて、旅回りのサーカスを始めた」
 老人を見つめて、カスタリアンは手を差し伸べた。
 「あなたに会いたかった……あなたに会えば、何とかなるのではないかと思ったのです」
 後悔に、赤く染まった手だった。

 あの時ああしていれば、愛する人を失うことはなかった。
 しかし、いくら悔いたところで、すでに終わってしまった事はどのようにもならない。そう、後悔とは大いなる無駄に過ぎない。
 それでも、悔いる。後悔するのだ。
 許されたいから。
 かすかな希望にすがりたいから。

 短い沈黙。その後に、老人の萎びた唇が動いて、かすれた言葉を作った。
 「……すまなかった」
 それは紛れもない謝罪の言葉。
 老人は自分を見つめるカスタリアンから目を逸らし、血に濡れた魔物の指を見つめていた。しわのように細められた目からは、先ほどまで見せていた強い光が消えていた。
 「何を」
 「レイチェルがそんな姿になっているのを見て、頭に血が昇ってしまったが……本当は、わしにお前を責める権利などない」
 ゆるゆると首を振ると、闇の中、白い髪が頼りなげな軌跡を描いた。
 「お前がレイチェルを抱いていた頃、おそらく、わしは別の女を抱いていた」
 最愛の人を失った悲しみ――怒り――そして、絶望感。心臓を奪われたかのような圧倒的な虚無感に、ロイドはうろたえた。
 何をしたらいいのか分からない。
 何も見えない、聞こえない、本当に何もかも分からない。
 家に閉じこもり、ただじっと座り込んでいるだけの日々が続き、やがてそこに差し伸べられた優しい手に、彼はすがった。
 安易に。
 老人は過去を振り返り、何度も何度も首を振った。
 「わしも愚かだった……彼女のことを思うのなら、やるべき事は一つしかなかったはずなのに」
 あまりにも年を取り過ぎてしまった、筋張って血管の浮いた細い手が、魔物の手へと添えられる。
 「すぐにレイチェルを探しに行っていれば、もっと早くお前に会えたかもしれなかったのに。こんな事には、ならずに済んだかもしれなかったのに――わしは、何もしなかった」
 あふれた血糊を拭う。
 「ここに来る前の町で、お前たちとレイチェルを見かけた……もしやと思ってついて来てしまったが、それまでは、わしは安穏と普通の人生を送ってきた。レイチェルの苦しみも、お前の苦悩もつゆ知らず、ごく普通に、幸せに暮らしてきたんだよ」

 ロイドは、約束を守れなかった。
 将来を誓った女性を、たった一人愛する人を、守りきることが出来なかった。
 追わなかった。自らの弱さに負けて、一番大切なものを諦めた。
 そして、カスタリアンも約束を守れなかった。
 たった一人愛する人を、永遠を共にしようと誓った女性を、守りきることが出来なかった。
 傷つけた。策を弄して策に溺れ、何も手に入れることは出来なかった。
 その罪は、どうすれば贖える?
 どうすれば、レイチェルは微笑む?

 いつしか星は厚く雲に覆われ、辺りは濃く闇に覆われていた。所在なげに置いてある、カンテラの炎だけが、わずかに瞬きながら辺りを映していた。
 どれぐらい時間が経ったのだろう。湿気を含んだ空気が自らの重みに耐えかねて、ぽつりと一つ、水の粒を落とした。
 「魔物よ」
 老人が、かすれた声でつぶやいた。
 「確かお前は、人の顔を奪うのだったな」
 確認するように、じっと見えない顔をうかがう。カスタリアンは、答えた。
 「奪えるのは、顔だけではありません。声も、姿も、魂も……望みとあらば、それまでの生き様も、未来の全ても」
 「それならば頼みがある」
 一体、何を?ユーゴスとファビエンヌは顔を見合わせる。
 「わしの全てを、お前に受け取って欲しい」
 「え……っ?」
 「ジジィ、てめ、何を……?」
 しかし、ロイドが何を言いたいのか、まるでそれがもう既に分かっているかのように、魔物は深くうなずいた。
 「喜んで」
 「おい、カスタリアン!」
 レイチェルを抱えたまま、ユーゴスが一歩踏み出した。傍らのファビエンヌも小走りに二人に近寄ってくる。
 「一体どういうこと?今さら、このおじいさんから姿を取って、何をするつもりなの?」
 「これで終わりにするんだよ」
 老人が首を振って答えた。
 「わしがこの人に全てを預ければ、わしは彼と共に永遠に生きられる……レイチェルを見守っていくことが出来る」
 「そして、わたしは彼の代わりとなって、若い頃の姿を取り戻す。もしかしたら、レイチェルがそれで心を取り戻してくれるかもしれないし、そうでなかったとしても、あの頃の夢を見せてあげることが出来る」
 ドッペルゲンガーはゆっくりと、まだ血の止まらない手のひらを持ち上げた。長い指を広げて、老人の顔の前に広げる。それは、これから行う残酷な儀式に必要な行為だった。
 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、二人とも!」
 ファビエンヌが間に割って入ろうとしたが、急激に高まりつつある魔力が障壁となり、阻まれる。弾き飛ばされて、彼女はユーゴスに受け止められた。
 「おい、大丈夫か」
 「ねぇ、ユーゴス!あんなの止めさせてよ、ねぇ!」
 二人を中心にして、魔力が風となり、渦を巻く。
 そんなことをしても罪は消えないと分かってはいるのに、傷は永劫残るのに、それでもやめることは出来ない。
 「無理だ……オレじゃ手に負えねぇ」
 紛い物の皮膚が風に溶けるように消えていく。人間の顔から皮膚を剥いだような、恐ろしげな姿が現れる。眼球も歯茎も剥き出しの、しかし、これがカスタリアンの真の姿。
 「なんとか……なんとかしてよ」
 ファビエンヌは言った。
 「あの二人を止めてよ、ねぇ、レイチェル!」

 わたしは、約束を守れなかった。
 たった一つの約束を、守りきることが出来なかった。
 そのために、わたしの周りにいるすべての人が傷つく。不幸になる。後悔する――わたしのせいで、罪を背負う。
 その罪は、何をもっても贖えるものではない。
 けれど、今。

 筋肉の上から直接生えた爪が、鈎のように尖る。
 戯れに子供がつけたお面を剥ぐように、広げられた手が老人の額にかかる。
 「ゆくぞ」
 「ああ」

 今、やっと間に合う。
 今、やっと償える。

 「や……て……」
 それは、ファビエンヌの声ではなかった。
 小さな鈴を鳴らすような、可憐で消え入りそうな声。
 吹き荒れる風の中、それでもその小さな声はまっすぐに届いた。
 「やめて」
 風が止んだ。雨が降り始めた。
 振り向く先に、彼女はいた。
 唇が動いて、はっきりと言葉を紡ぐ。人形は、歩き始めた。


次回興行に、続く。

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