今までの想いをすべて手紙にしたためて、彼女は立ち上がった。
荷物はいらない。持って行くものは何もない。ただこの体一つ持って、わたしは魔物の元へ行く。
愛する人の未来のために、わたしは全てを捨てていく。
ただ一つだけ、あなたを愛する心だけ、ここに残していけばいい。
ともすればこぼれ落ちそうになる涙をこらえ、そっとベッドの傍らを通り抜けていく。音を立てないようにドアを開け、静かにそっと、後ろ手に閉めた。
足音とともに未練を殺した。何事もなければ、彼女と彼とで守り立てていくはずだった小さなよろず屋の店内を抜け、表に出る。看板を仰いで、それから振り返ると――もうそこに、魔物がいた。
「もう、良いのですか」
「はい」
どこの誰ともつかない青年の顔を見上げて、彼女はうなずいた。
「どうぞ、連れて行ってください」
これ以上ここにいたら、辛くなるだけ。
それよりも早く、どこにでも連れ去って欲しかった。地獄のような毎日を、永劫に続く責め苦を、早く与えて欲しかった。彼と一緒に過ごせない苦痛を忘れたかった。
それなのに――それなのに、あなたは!
愛しています、と魔物は言う。
彼女に与えられた部屋はあまりにも豪奢で、窓からはいつも、どこか平和な黄昏か夜空が見えていた。
玩具にすると言ったのだから、どれほどひどい仕打ちが待ち受けているかと思っていたのだが、実際は彼女の想像とはまるで違っていた。食事もドレスも望むがまま、屋敷から出ることだけは叶わなかったが、魔物は騎士のようにふるまい、彼女を姫君のように扱った。
愛しています、と言いながらも、彼女が許さなければ、キスの一つもしなかったのだ。
「愛しています、レイチェル」
傍らに来て彼女の手を取り、昨日とは違う顔で魔物は言った。
「あなたが応えてくださるまで、わたしはいつまでも待ちますよ」
「で、でも……」
彼女はうろたえる。
「わたしは人間だから……いつか、年を取ってしまいます。そうしたら、しわくちゃのお婆ちゃんになってしまうんですよ?」
「分かっています」
神妙な面持ちは、すでに先ほどの青年とは微妙に違っているような気がしたが、それにももう慣れた。
「あなたさえいいと言ってくれれば、あなたの体を作り替える事は出来るのです。私の側で、その姿のまま、永遠に生きていける体に」
「……無理矢理には、そうしないのですか?」
「ええ」
微笑んでうなずく魔物は、どこか嬉しそうだった。
「愛していますから」
なぜか得意げ。二言目にはそんな台詞を吐くくせに、自分のことは無理矢理ここに連れてきたではないか。
彼女は、ここに来て初めて、ぷっと吹き出して笑った。
「……変な人」
もうすでに、この魔物は怖いモノではなかった。むしろ、好ましいとさえ思っていた。
「わたしは人ではありませんよ?」
真顔で返事をする魔物に、彼女は答えた。
「そういう意味じゃないんですけど……まぁ、いいか」
「何がです?」
いくらこの魔物が優しくても、あの人の元へは二度と戻れない。覚悟を決めてここへ来たのだ。
「わたしを魔物にして……いいですよ」
あの人のために、この魔物を喜ばせる。人間であることだって捨てられる。
そう、この魔物のためじゃない、あの人のためだ。
「本当に?」
彼女はうなずいた。
やがて、優しい魔物は彼女を抱いた。
やっと手に入れた、大事な大事な宝物。もはや人には戻れない彼女を、慈しむように優しく愛した。
だが、その瞬間、彼女は気付いてしまった。
いつの間に、わたしは、この魔物を愛していた?
心は決まっていたはずだった。
たとえこの身がどこにあろうと、どんな形になってしまおうと、わたしの心は変わらない。あの人だけを愛し続ける。
約束したのだ――誓ったのだ、自分に。
それが永劫を生きる支え。それだけが、残してきたあの人に報いるたった一つの方法だと信じていた。
それなのに、喜んでいる自分がいた。他人の物になって、嬉しいと思う気持ちが確かにそこにあった。
「……ロイド」
愛している人の名前を呼ぶ。目の前に、愛する人がいるというのに。
裏切れない、裏切りたくない、でも裏切ってしまう――心が、悲鳴をあげる。
「ロイド……ロイド!」
死にたい。
死ねない体になって初めて、死にたいと思った。自らの罪に、もはや耐えられなかった。
両手を離すと、やけにあっさりと、心は闇の底に沈んでいった。
「……ごめんなさい」
そして生まれた人形は、今、闇の底から立ち上がり、歩き始めた。
罪を償えるのは今しかなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさいッ……、わたしの……わたしのせいで」
許して、とは言えなかった。ただレイチェルは声をつまらせて両膝をついた。
五十年もの間、二人を裏切り続け、苦しませ続けた。その間、自分だけはぬくぬくとした闇の中で心を閉ざし、何も見ない、聞かないままで過ごしてきたのだ。
それでも。
どれだけ罵られ、嘲られ、侮蔑されようとも、今ここで二人を止めなければ、この罪を断ち切ることなど出来はしないのだ。
レイチェルは顔を上げた。雨の中、ひざまづいて二人の顔を見上げた。
「レイチェル」
同じようにつぶやいて、二人が彼女を見下ろす。
片や、皮膚のない、筋肉の剥き出しになった恐ろしい形相の魔物。片や、枯れ果てて皺だらけになった老人。
驚きが複雑に彼らの表情を変えた。だが、それはやがて、笑顔になった。
「レイチェル」
二本の腕が差し伸べられる。手を引かれ、肩を抱かれて彼女は立ち上がる。不安げな顔に、カスタリアンとロイドは微笑んで告げた。
「もういい……久しぶりに会えたというに、泣くんじゃない」
「泣いて謝らなければならないのは、わたしたちの方なのですよ?分かってますか?」
「……でも」
「もういいんだ、本当に」
形は違えど、みな等しく道を誤った。そして、長い年月がかかってしまったけれども、それはまた、交わったのだ。
「わたしたちはね」
カスタリアンが顔のないまま笑った。傍から見れば不気味なことこの上ないが、彼が優しい魔物であるということは、ロイドにもレイチェルにもよく分かっていた。
「あなたが戻ってきてくれたのですから、それでもう、いいんです」
二人の手が同時に伸びて、雨と涙に濡れた頬を拭う。レイチェルは、腕を広げた。
「ロイド……カスタリアン!」
目を覚ましたばかりの感情があふれた。二人に抱きついて、彼女は泣いた。声を上げて、涙を流して、謝りながら――最後には笑いながら、泣いた。
いくらかの荷物を詰め込んだトランクを持って、レイチェルは出て行く。
「気をつけてね」
心配そうにファビエンヌが声をかけた。
「まぁ、あんたたちに手を出したら、団長が黙っちゃいないだろうけど、それでも、ね?」
「はい」
感謝の念をこめて、レイチェルは何度も頭を下げる。
「コケんなよ、ジジィ」
その一方で、ユーゴスは腕組みをしたまま、不安そうに老人を眺めていた。
「まぁせいぜい頑張って長生きするこったな。美味いモンでも食って、な」
「そうさせてもらうよ」
昔の姿のまま、決して老いることのない少女とは対照的に、傍らの男は年を取り過ぎている。それでも二人は若い恋人同士のようにしっかりとお互いの手を握りあっていた。
彼女の手を引いて、ロイドが言う。
「それじゃ、そろそろ行くかの」
「はい」
真っ直ぐな瞳でうなずくレイチェルの髪は、太陽の光を浴びて、まぶしほどにきらめく。明るい笑顔に目を細め、カスタリアンはいつものように、口元だけで笑った。
「困ったことがあったら、いつでもわたしの名前を呼びなさい。どこにいても、聞こえますから」
「はい」
レイチェルも笑った。握っていた手をほどき、つとカスタリアンの正面に立つ。
「それでは、行ってきます」
背伸びをして、唇を重ねた。一瞬だけ、ロイドが忌々しそうな表情を見せたが、それもすぐに消え、彼女が振り向く頃には先ほどと同じ笑顔を浮かべていた。
「世話になったな」
「お元気で」
短い挨拶を交わし、二人は魔物たちに背を向けた。
カスタリアンの魔力を込めた宝玉があれば、彼から離れていても、レイチェルは動き回ることが出来る。それをいくつか携えて、彼女は、本来ロイドと暮らすはずだった家へと帰るのだ。
もう、レイチェルにも、カスタリアンにも、サーカスは必要ない。
「さて、と」
街路を曲がって、二人の後ろ姿が消えるまで見送ってから、カスタリアンは友人たちを振り返った。
「これから少し退屈になると思いますが……今度は何をします?」
「もういいよ」
狼男はうんざりとした顔つきだ。
「お前といると、面倒に巻き込まれすぎて面倒くせぇ。ちっとは休ませろ」
「あたしも。どっかのお屋敷にでも飾られてようかな」
肖像画の女は煙管を片手にしれっと答える。
「そしてまた、気が向いたら」
背後には、草がぽつぽつと生えるだけの広場。しかし、ここに大きなテントを並べて、人間をたくさん呼んで喜ばせるのは楽しいだろう。
「今度はもっとメンバー増やして、巡業しましょうよ」
「……そうですね」
そうすれば、今度はさらに楽しく旅が出来るだろう。
「それでは、次に会える日を祈って」
――皆様、ごきげんよう!