いつでも闇はそこに在り、僕を見つめている。
一言、応と言いさえすれば、甘美な優しさで包み込み、すべての欲望を叶えてくれるだろう。すべての夢を、現実にしてくれるだろう。
だが、まだだ。まだ、駄目だ。
僕は、まだ、そこには帰れない――
魔術師ギルドの総本山。その膝元の街に、名前はない。この近くにこれほど大きな街は存在しないから、区別する必要がないのだ。
その街で、彼は生まれた。
クレイトン商会の会長という、この街の商業を牛耳るもっとも有力な商人の孫として、そして、双子の片割れとして。
ラザフォードとアンドリュー。
父親譲りの美しい銀髪と、母親譲りの澄んだ緑の瞳の愛らしい兄弟は、いつか、クレイトン商会を継ぐ者をして、大切に育てられることとなる。
裕福な家庭。温かい家族。双子は、何不自由することなく、すくすくと成長していくはずだった。
その知らせは突然に届いた。
「大旦那様…ッ、こ、これを!」
いつもと変らず仕事中の会長の部屋に、使用人が駆け込んで来た。手には、赤く染まった紙が一枚、握られていた。
「何事だ?騒々しいッ」
「それどころではございません!」
使用人の非礼を叱責する老人に、彼は頭を下げながら、手紙を差し出した。明らかに血とおぼしき液体に濡れたそれに顔をしかめたが、やがて嫌そうに受け取り、目を通す。
その内容を、ゆっくりと頭に入れる。二度ほど読み返し、クレイトン商会会長は、使用人にそれを返した。
「捨て置け」
「え…ええッ!?」
手紙を受け取った使用人は、目を丸くした。
「し、しかし、それでは!」
「娘と婿殿に知られる前に、その手紙は処分せよ。そして、これは他言無用…良いな?」
冷徹な声だった。こうなってしまうと、この老人は誰の言葉にも耳を貸すことはない。これが、一代でこれだけの富と財産とを手に入れた男のやり方だった。
「わ…、分かりました……では」
血塗れの手紙をたたんで胸元にしまい、使用人は顔を伏せたまま部屋を出た。
双子の母親にして、クレイトン商会の跡取り娘レオノーラは、途方もなくうろたえて、ただ泣くばかりだった。その胸に抱きしめられている息子は一人だけ。
「ああっ…ラザフォード…ラザフォード!!」
まだ幼い息子を抱きしめて名前を呼ぶ。だが、子供はきょとんとしていた。
「母様…ボク、アンドリューだよ」
「ああ、ええ、そうね、そうだったわね」
事態が飲み込めないまま、自分の名前を告げる息子に、レオノーラは力なくうなずいた。
双子を散歩に連れていった乳母が、変わり果てた無残な姿で見つけられたのが数時間前のこと。
どこの誰とも知れない輩に襲われて、護衛の者たちさえも一人残らず殺されてしまった。その惨状の中、弟であるアンドリューだけが無傷で残され、兄であるラザフォードの姿は消えていた。
「死体はなかったんだ、大丈夫だ」
入り婿の夫セオドアは震える妻の肩に手を置いた。
「あの状況だ。きっと怖くなって逃げ出して、どこかで迷子になっているんだろう。きっと、すぐに見つかるさ」
「うぅ……そうよね、きっとそうよね」
「少し休め。あまり泣いてばかりだと、アンドリューにも良くない」
言われるまま、レオノーラはゆるゆると息子から手を離して立ち上がる。胸を押さえてため息をつき、それから不思議そうに自分を見上げているアンドリューを見た。
「アンドリュー。一緒にお昼寝しましょうか」
「うん!」
状況がよく分かっていない息子の手を引いて、寝室へ向かう。肩を落とした後ろ姿を見送って、セオドアは自らの体を叩き付けるようにしてソファに埋めた。
「くそ…ッ!」
息子たちは、やっと五つの誕生日を迎えたばかりだ。それなのに、何故、こんな目に?
クレイトン家はこの街で一番の財力を誇るが故に、敵も多い。分かっていたからこそ護衛も十分に付けておいたのに、それが全滅させられたという。戦闘能力を持たない乳母でさえ、容赦なく殺した相手。
それが、双子だけ生かして、残した。
その場に残された弟のアンドリュー。何も残さずに消えた兄のラザフォード。
しかし、商会の人間だけでなく、街の人々にも協力を仰ぎ、総力を挙げてラザフォードの行方を探しているが、まだ見つからない。
「まさか…誘拐、か?」
セオドアは額に手を当てながらつぶやいた。
あり得ない話ではない…が、それにしてはやり方が乱暴すぎる。まさか。
その時、部屋のドアが静かにノックされた。
「誰だ!?」
「わたくしでございます、若旦那様…」
ささやくように小さな声が聞こえてきた。義父であるヴァルクス会長付きの使用人だ。だが、いつもと違って明らかに声を殺しているその様子に、セオドアは妙な不安を覚えた。
「入ってくれ…何か、あったのか?」
「はい。失礼致します」
静かに、最小限必要なだけドアを開け、辺りの様子をうかがってから滑り込むように中に入る。そして、そのままセオドアの側まで近付いて来ると、ソファの傍らに膝をついた。
「お嬢様は?」
「アンドリューと一緒に、奥の部屋で休んでいる」
寝室へと向かう扉はきっりちと閉められていた。贅をこらして造られた屋敷であるため、扉も壁も分厚く、その向うの様子を伺うことは出来ない。それを確認し、使用人はセオドアの耳に顔を寄せた。
「このことは…お嬢様のお耳には入れない方がよいかも知れないと思いまして」
「一体何だ?」
「実は…」
懐から、赤茶色の紙を取り出す。それは、パリパリと耳障りな音を立てて広げられ、細かい粉をぱらぱらとこぼした。
「まずは落ち着いてお読み下さい。話はそれからです」
『クレイトン商会会長 ヴァルクス・クレイトン殿
貴殿の孫、ラザフォード・クレイトンは預かった。返して欲しければ、一週間以内に4500万ゴールド用意しろ。
さもなくば、孫の命はない。
――邪神ソルの使徒より』
「ラザフォード」
短い文面ながら、その意図するところは明白だった。父親は蒼白になり、ただ、手紙を持った両手を震わせていた。
「ラザフォード…ッ!」
「若旦那様、落ち着いて」
今にも手紙を引き千切ってしまいそうな彼の手を押さえ、使用人は低く告げた。
「さらに続きがあります」
「な…何…?」
「この手紙…大旦那様宛てになっておりましたので、先に大旦那様にお見せしたのですが」
声はさらに低く、ほとんど聞き取れないほどに小さくなった。
「捨て置け、と」
「な……ッ!?」
青ざめていた顔が、みるみるうちに赤くなった。セオドアは手紙から手を離し、そのまま使用人の両肩をつかんだ。
「何故ッ!?どうして、義父上はそんなことを…ッッ」
「それは、わたくしには分かりかねます」
使用人は若い主人の手を押さえ、静かに、落ち着かせるようにゆっくりと告げた。
「おそらく何かお考えがあってのことでしょう。若旦那様とお嬢様には決してこの手紙のことを知らせぬよう、釘を刺されました。しかし」
また声を潜めて続ける。
「わたくしには、お坊ちゃまをこのまま見殺しには出来ません。ですから、どうか」
「……分かった」
父親は怒りを噛みつぶすかのように奥歯をきつく噛み締めて、次の言葉を選んだ。
「この手紙は、お前が捨てたのを私が見つけたということにしておく。よく知らせてくれた…礼を言う」
「いえ」
使用人は丁寧に頭を下げて、一歩退いた。
「では、わたくしはこれにて」
「ああ」
そのまま、来た時と同じように辺りの様子をうかがいながら部屋を出て行く。
セオドアは立ったまま、それをじっと見送っていた。扉が閉まっても、まだ睨み付けるようにそちらに顔を向けたまま。
「義父上…何故」
4500万ゴールド。それは、クレイトン商会全体の、ほぼ一年分の売り上げに匹敵する。さすがに、用意しろと言われてすぐ出せるような金額ではない。
しかし、だからといって、捨て置いていいような事ではない。ましてや、親であるセオドアたちに知らせるなとは、一体どういうことか。
まずは心を落ち着かせて、それから義父上に会いに行こう。
足元には、乾燥して血の粉を吹く手紙が、所在なげに転がっていた。
ヴァルクス・クレイトンの答えは、否だった。
「考えてもみろ、セオドア」
表情一つ変えず、老人は義理の息子に告げた。
「将来、お前はどちらに商会を継がせるつもりだ?ラザフォードか、アンドリューか」
「それは…その時に、優秀に育った方に」
「その選択が、お前たちに出来るか?」
冷たいと思えるほどに落ち着き払った声で、まっすぐにセオドアに尋ねる。
「あれは双子。顔も姿もまったく同じだ。おそらく、まったく同じように育てれば、まったく同じように育つだろう。だが、お前の跡を継げるのは、どちらか一人なのだ」
「片方は、補佐に」
「それは誰しもが思うことだがな」
長い間、この業界で生きてきて、ヴァルクスは知っていた。同じような能力を持つ二人は、同じ立場に立つことしか出来ないのだ。どんなに仲が良い親友同士でも、兄弟でも、一つしかない席を明け渡し、その後ろに立ち続けるということは出来ないのだ。
仲違いして自滅していくその様を、老人は何度も見てきた。
「それに、相手も悪い」
呆然と立ち尽くす父親に、淡々とした言葉が続けられる。
「ただのチンピラ共なら、金を渡したところで適当に使い潰すだけ。役には立たんが、害にもならん。しかし、邪神ソルの使徒というのは、魔王を信奉する邪教集団…そのような連中に、あのような大金を渡せば、一体どうなる?」
「…そ…それは」
セオドアは口ごもった。
「渡した金を使い、このクレイトン商会を乗っ取られでもしたらどうする?そうなれば、わしらのみならず、この街の人々までもが魔王の手の内に落ちることになるだろう」
それは、恐ろしい選択だった。
金にものを言わせて我が子を救えば、あまりにも手痛いしっぺ返しを食らうことになるかもしれない。
「わしらには、まだ、アンドリューが残されている」
穏やかに、優しく包み込み、言い聞かせるように、老人は言う。
「レオノーラにはすまないと思う。しかし…わしらの、全ての未来のためだ」
父親は、うなずかなかった。しかし、否定もしなかった。肩を落としたまま出て行く後ろ姿が、答えを雄弁に物語っていた。
この日――双子の兄、ラザフォード・クレイトンは、親に見捨てられた。