まだ、死にたくなかった。
当たり前だ。まだ、自分は何も知らない。何もやっていない。やっと、五歳になったばかりなのだ。
暗い部屋の中でたった一人、本能的に死の影を感じ取り、少年は震えていた。
「返事はありません。金は、払わないようです」
真っ暗な闇の中にいると、そんな声だけが聞こえてきた。
「そうか。それならば、仕方あるまいな」
低く冷たい声。こんな声で話す人間を、彼は知らない。
脅える彼を閉じ込めた部屋の扉が開く。薄い光が差し込んで来る。しかし、それはすぐに、入り口に立ちはだかる人の影で遮られてしまう。いつになっても、暗く、冥い部屋。
「子供」
彼は、そう呼ばれていた。
「お前は親に見捨てられた。身代金は、支払われない」
言葉の意味はよく分からない。だが、それが、自分にとって良くない事だというのは分かった。
「もう用済みだ。処分するから、こっちへ来い」
処分。
難しい言葉だが、直感的に理解する。
「…僕は」
まだ、死にたくない。
だが、そのためには、一体どうすればいい?一体どうすれば、助けてもらえる?
「もう、役に立ちませんか?」
精一杯の言葉を絞り出す。不思議と、声は震えていなかった。
「…ほう」
その様子に感心したのか、人影がわずかに感情を感じさせる声をもらした。
「この状況で、大したことを言う」
シルエットになった肩が揺れた。どうやら、笑っているらしい。
「それに…銀髪か。なかなかに可愛い顔をしているな。これは、使い物になるかもしれん」
靴音を鳴らして、その影は部屋の中へと踏み込んできた。暗闇の中央に所在なく立ち尽くす子供の頭に手を乗せて、喉の奥で笑う。
「いいだろう、子供。我らが主人に跪き、永遠の忠誠を誓うのならば、命は助けてやろう」
それが何を意味するのか。
分かるはずもない。分かる術もない。
漠然とした不安を感じながら、それでも彼はうなずいた。
「はい…お願いします」
従順に、素直にうなずいた。そうすれば、この闇の中から出られると信じて。その先に、さらなる絶望と暗黒が待っているとも知らずに。
ただ、死にたくなかった。
彼はいつしか、名前を失っていた。
邪神を崇める集団の中で、一番下っ端としてこき使われる少年の名前を呼ぶ者などいない。おい、と呼ばれればすぐさま駆けつけなければならないし、こら、と叱られれば額を床にこすりつけて謝らなければならない。
「おい」
彼を拾ってくれた暗黒司祭も、子供、としか彼を呼ばなかった。二年ほど経って彼がこの場所に慣れ、みなに覚えられてきたところで、それは変るべくもない。
それでも、彼は笑顔を忘れなかった。
「はい、何でしょう?ザルク司祭様」
「そろそろ、ここにも慣れたか」
「はい」
凶々しい装飾を施された、昼なお薄暗い建物。これが何のためにあるのか、はっきりと教えてくれる者は誰もいなかったが、薄々感づいてはいた。
良くないところ。悪いことをするところ。
でも、まだ、生きている。生かしてもらっている。
「それならば良い。お前にも、ぼちぼち仕事を覚えてもらおうと思っていたところだ」
「本当ですか!」
さすがに、いつも下働きだけでは飽きてきたところだった。少年は素直に喜びの表情を見せた。
それを冷笑と共に見下ろして、ザルクは告げた。
「今夜、客人が来る。お前の仕事は、その相手をすること」
「お相手…ですか?」
「そうだ」
暗黒司祭は薄く笑う。
「何、簡単なことだ。客人の言う通りにしていればいい…お前なら、上手くこなせるはずだ」
「…はい」
楽しげな、しかし冷たく暗く、遠く、どこまでも向こう側の見えない笑顔。ここにいる人間は、誰もがこんな顔をする。
そして、こういう顔にわずかでも逆らった人たちを、少年は二度と見たことがない。
「頑張ります」
少年も笑った。ちゃんと笑顔になっているかどうかは、あまり自信がなかった。
客人の相手、というのはすなわち、男娼としての仕事だった。
行為の意味も知らず、ただ獣のような欲望をぶつけられて、彼は泣き喚いた。体を引き裂かれる痛みと、無理矢理に蹂躙される屈辱にまみれて、すがるものもなく、悲鳴を上げ続ける。
父親譲りの美しい銀髪が揺れる。母親譲りの澄んだ緑の瞳が涙をこぼす。その痛々しい様は、余計に凌辱者の嗜虐芯を煽るだけ。観客を無駄に楽しませるだけ。
自らの血にまみれながら彼は泣き、やがて、泣き止んだ。
明日も、明後日も、そのまた次の日も、こんな生活はこれからずっと続いていく。けれど、死にたくないなら――何をされようと、どんな事が起ころうと、負けることだけは許されない。
「初めてにしては、なかなか良かったぞ」
「…はい」
少年は、自分を抱いた男に向かって笑った。
「ありがとう…ございます」
冷たく、儚く。
幼い子供には到底似つかわしくない色っぽさまで備えた顔で、彼は笑った。
「よく出来た」
ザルク司祭は、少年をほめた。ここに来て、おそらく最初のほめ言葉だったろう。目を細めて、彼は値踏みするように銀髪の少年を上から下まで眺め回す。
「その様子なら、次の仕事も出来そうだな」
「はい」
少年は相変わらず素直にうなずいた。
「いいだろう。では、これを受け取れ」
差し出されたのは一本の短剣だった。子供の手にも扱いやすそうな、細身で小ぶりのものだった。磨き上げられた刃が緑色の目を映している。
「これは?」
「見ての通りだ」
ほら、と言わんばかりにもう一度差し出され、少年は短剣を手に取った。冷んやりとした金属の感触が、柔らかな手のひらに吸いついてくるようだった。研ぎ澄まされて、触れるだけで切り裂かれそうな感覚さえ覚える。
これは、人を殺すための刃。
受け取らなければ、自分を殺す刃。
「それから、これもだ」
さらに、一冊の書物も手渡された。魔王の紋章を刻み込んだ黒い表紙の本は、何度か見たことがある。邪神に仕える司祭たちが大切そうに持っている物だ。
「魔道書だ。これからは、魔法の勉強もするとよい」
「はい」
もう分かっていた。ここに書かれた魔法は、人を傷つけるためだけにあるものばかりだ。
「ありがとうございます」
しかし、少年は笑みを浮かべて、二つの凶器を胸に抱いた。
生きていくしか、ないのだから。
それは天性の才能だったのか。
男娼として、暗殺者として、そして、暗黒魔法の行使者として、少年はめきめきと才能を発揮し始めた。もはや、ただの子供ではない。
銀色の髪に縁取られた丸みのある優しげな顔立ちさえも、彼にとっては武器になった。男に抱かれながら、淫猥な笑顔のまま相手を殺す。脅える標的に優しげな笑顔を見せておいて、躊躇なく殺す。
「おい」
ここに来て、すでに三年。彼ほどに有能な暗殺者は、もうこの支部にはいない。
ザルク司祭は、告げた。
「最後の仕事だ」
「え?」
珍しく笑顔をやめ、驚いた表情で少年は聞き返した。
「最後…って?」
「この仕事が成功すれば、イルクラチアへ行ってもらう」
彼を育ててきた司祭は、苦々しげな表情をしていた。
この世の全ての快楽と犯罪が集うと言われる、最高最悪の歓楽街イルクラチア。そこにはこの邪教最大の支部があり、支部長である司教は同時に街の領主を務めるほどに、彼らの力の強い場所でもあった。
「上手くすれば、司祭の位も与えられるだろう。せいぜい、頑張ることだ」
明らかな嫉妬と憎悪をその顔に浮かべ、ザルクは告げる。
「はい、ありがとうございます」
しかし、少年の顔は変らなかった。驚きはもう消えて、穏やかな笑顔だけが、いつものように浮かんでいた。
「それで、今回の相手は…?」
「ああ、そうだったな」
手元に散らばった書類を集め、ふと、司祭は歪んだ笑みを見せた。
「今回の標的は、この男だ」
彼の前に差し出されたのは、一人の老人の似顔絵だった。
「ヴァルクス・クレイトン。クレイトン商会の会長だ」
「はい」
少年は素直にうなずく。ただ、相手の顔を覚えるために、老人の絵をじっと見つめる。
「それから、その婿であるセオドアと、孫のアンドリューも、だ」
「はい」
言われたまま、またうなずく。無表情に見えなくもない笑顔を浮かべたままの彼に、ザルク司祭は満足げな顔を向けた。
その仕事が、何を意味するのか、彼には分からない――いい気味だ。
命を助けてやったのは自分なのに、それを軽々と追い越していく少年が憎かった。
「期日はいつ頃?」
まるで疑う様子もなく尋ねる少年に、司祭は答えた。
「なるべく早い方がいいが…特に、いつでもよい。十分に準備を整えてから行くがいいだろう」
「はい」
同じ顔をした少年を見て、驚き、うろたえるがいい。自分の家族を手にかける罪の深さに、恐れ慄くがいい。
「失敗は許さん…よいな?」
「はい」
一礼し、少年は部屋を出て行く。その手には、大事そうに魔道書が握られていた。
「アンドリューを呼んでくれ。少し、話がしたい」
クレイトン商会を一代で作り上げた豪商、ヴァルクス・クレイトンも、寄る年並みには勝てなかった。娘のレオノーラに先立たれたショックもあり、最近は横になっていることも多かった。しかし、ベッドの上から精力的に指示を出し、まだまだその健在ぶりを見せつけている。
「はい、義父上」
婿であるセオドアはその右腕としていつも傍らにおり、義父を支えていた。いずれは彼が商会を継ぎ、息子へと引き渡していかなければならない。その責任を全うするべく、父は息子を厳しく教育していた。
「すぐに呼んできましょう。しばしお待ちを」
「うむ」
セオドアは軽やかな足音と共に扉を開け、出ていく。遠ざかっていく足音を聞きながら、老人は天井を見上げた。
今でも、思い出さない日はない。
ラザフォード。五年前に失った、もう一人の可愛い孫息子。
すまない…あの時は、ああするしかなかった。仕方がなかったのだ。
最後まで、ラザフォードが帰ってくると信じながら、次第に心を病んで死んでいった娘の顔を思い出す度、冷徹な老人の心が揺らぐ。目の前にいない子供に向かって、何度も謝罪の言葉を繰り返す。
育っていれば、アンドリューと同じ。あのように愛らしい子が、もう一人。
何故…あの時、わしは。
後悔が、胸を横切ったその時、静かに扉が開いた。
銀色の髪、緑の瞳。よく見慣れた孫が、笑顔を浮かべて入って来た。
「おお、アンドリュー」
ヴァルクスはゆっくりと首を巡らせて、少年を迎える。だが、すぐに、彼の様子がいつもと違うことに気がついた。
「アンドリュー…その姿は、一体」
赤い服を着ているのではなくて、服が赤い色に染まっていた。だらりと下げた指先から、ぽたぽたと音を立てて赤い雫が零れ落ちる。
「どうした?怪我をしているのか!?」
あわてて肘をつき、上半身を起こす。しかし少年は、笑顔のままベッドに近付いてきた。
「いいえ。僕は大丈夫」
間違いなく、それは聞き慣れたアンドリューの声だった。
いや――何か違う。嫌な予感が老人の胸を締め付けた。
「しかし、その血は」
まさか。
凍りついたように、動けなくなるヴァルクスの目の前で、少年は血まみれの片手を持ち上げた。雫が落ちて、銀色のきらめきを持つ短剣が姿を現した。
「お前は、まさか」
笑顔のまま、少年はそれを差し出した。迷いもなく、それは老人の左胸へと吸い込まれていく。
「ラ…ザ…、フォ……ォ」
かすれた声は、何かをつぶやいた。人の名前のようにも聞こえたそれは、しかし、少年にとっては何の意味も持たない言葉だった。
あと一人。
アンドリュー・クレイトンという標的を消せば、今回の仕事は終わり。屋敷の警護を突破するのに少々てこずったが、あとは自分と同じ年頃の子供が一人だけだ。
自分と違って、恵まれた環境でぬくぬくと育ってきた、およそ苦労というものを知らない、世間知らずのお坊ちゃんが。
暗殺者の少年は、ゆっくりとドアを振り返った。鋭敏な聴覚が、駆けつけてくるかすかな足音を聞き取っていた。
程なく、あわてたように扉が開き、最後の標的が顔を出す。
「お爺様!一体、何が…」
そして、二人の少年は、互いの顔を見合わせた。
父親譲りの銀の髪、母親譲りの緑の瞳。
まったく同じ顔が、そこにあった。二人は、双子だった。