花咲き阿修羅


雪子 その次にキャンパスで阿修羅君に出会ったとき、彼は、また何も考えていない元の阿修羅君になっていました。
(阿修羅、出てくる。)
雪子 阿修羅君、大学の中庭で言ったわね。あたし、もうダメだわって。
阿修羅1 何がダメなの?
雪子 行き詰まった自分を救うことが出来ないかぎり、阿修羅君、あなたも、そしてあたしもダメなのよ。人は進歩しないと生きていく価値はないと思うの。
阿修羅1 なあるほど。雪子ちゃんは、随分と哲学的なことを言うね。
雪子 阿修羅君には、自分でこれ、と思うものはないの?
阿修羅1 さあ。
雪子 少しは、考えてね。
阿修羅1 何を?
雪子 口を。口を開けてご覧。
(阿修羅、雪子にむかって口を開ける。雪子、おもむろにピンセットを出して阿修羅の口に突っ込んで、魚の骨を摘みだす。)
阿修羅1 いでででで。
雪子 これ。魚の骨。
阿修羅1 まだ引っ掛かっていたのか。
雪子 見えていたはずなのに。ねえ、阿修羅君?あたしたち…別れましょうか。
(雪子、去る。)
教授 なるほど。そういって、また振られたわけだな。
阿修羅1 そうなんです。
教授 で、それからまた、絵は描いたかな?
阿修羅1 ええ、今度こそ、訴えるものがある絵になりました。
教授 自分で言ってりゃいいってもんだな。どれ。
(阿修羅、絵を取り出してみせる。直訴、と書いてある。)
教授 阿修羅。
阿修羅1 はい。
教授 もう一度、女に振られてこい。いや、それでもお前はダメかもしれないな。
阿修羅1 そんなに進歩がありませんか。
教授 前回と比べて、良くも悪くもなってない。全く変わってないんだ。いいか、これが前回の絵だ。(1枚の絵を出す。次々絵を出しながら)それから、これが、前前回の絵。それからこれが、その前の絵。それから、こっちがさらにその前の時の絵。で、しまいにこれが、そのまた前の、“え”だ。(最後の1枚は、ひらがなの“え”が書いてある。)
阿修羅1 (ひらがなの“え”をさして)いいえ、僕から見たら、これなんかより物凄く進歩したように見えますが。
教授 お前は進歩っていう言葉の意味が分かっていないようだな。
阿修羅1 少しは考えました。女の子たちに、何度も何度も言われましたから。あなたは何も考えてない、本当に何にも考えてないって。僕は…一体、どうしたらいいんです?僕に一体何をしろと?
母親 何もしなくていいのよ。
教授 これはこれは、お母さん。
母親 阿修羅は何もしなくとも良いの。ただ、あたしたちの傍で、ずっといい子でいればいいのよ。
教授 それは、子供の進歩を望まない言葉ですね。
父親 阿修羅は未熟児で生まれました。こんなに小さくて、いつ死んでもおかしくない子供だった。
母親 わたしの体力ももう限界で、この子が死んでも、もう次の子供は望めない。大切な大切な、たった一人の愛しい赤ちゃん!
(母親、阿修羅をかき抱く。)
阿修羅2 僕は赤ちゃんじゃない!
父親 ええい、うるさい、父さんの話を最後まで聞け!父さんはな、阿修羅が生まれて本当に嬉しかったんだ!親馬鹿と言われようと、過保護と言われようと、構わなかった。優しく、厳しく、でき得る限りの手を尽くしながら、やっとここまで育ててきた。
阿修羅1 お、お母さーん…
母親 阿修羅!どうしたのその格好!
阿修羅1 実は…今日、学校で…
父親 何っ、お向かいの勝久君と3軒向こうの新太郎君に、ウエスタンラリアートのうえ卍がための連続攻撃を受け、あまつさえ殴る蹴るの膀胱炎にかかったって!ええい、うちの可愛い阿修羅に、何てことをするー!
母親 阿修羅、かわいそうな阿修羅!おお、痛いかい?母さんが薬を塗ってあげようね。しみるかしら?痛い?
阿修羅1 うっ、い、痛いけど大丈夫。
両親 健気ねぇー!
阿修羅1 学校行く。
母親 ああ、本当にいい子に育って。
父親 このまま、ずっといい子でいてほしいものだな。
阿修羅1 ただいま。あのね…(母親に耳打ち。)
母親 まあ、本当?素敵ねえ阿修羅!
父親 どうした?
母親 あなた。阿修羅が、図画の時間に絵を描いたんですって。そうしたらそれが、学校で一番になったんですって!
父親 偉いぞ阿修羅!
阿修羅2 違う!僕は、いつまでも、そんな子供じゃないんだ!
父親 親にとっては子供だよ。
母親 受験地獄で倒れはしないかと、あたしたちも細心の注意をして立ち向かったものね。
阿修羅1 中学受験も、高校も、大学入試も、みんな母さんと父さんが一緒についていてくれたから、何も悩む必要はなかった。
阿修羅2 …おかげで…おかげで僕は挫折を知らない。悩むということが何か、どんなに辛いことか、考えるということがどれほど難しいかということが、一切分からない!分からないんだ!
母親 悩まなくてもいいのよ。あなたは何も悩まなくていいの。
阿修羅1 うん。
阿修羅2 嫌だ!
教授 阿修羅?
阿修羅2 教授!僕は、僕は一体どうすればいい?何をしたらいい?教授!答えて!答えて!
父親 阿修羅!
(父親、かなりひどく阿修羅2を殴りつける。阿修羅、倒れてしまう。)
阿修羅1 教授、見て下さい。(と、絵を2、3枚持ってくる。)
教授 阿修羅?
阿修羅1 お願いです。少しは考えたんです。見て下さい。
教授 見る前から分かる。これは、ダメだ。全然ダメだ。
阿修羅1 見る前から?どうして?
教授 これは、マッシュルームの絵だろう?よく出来ているが、色がちょっと暗くないか。
阿修羅1 マッシュルームなものですか。キノコ雲です。
教授 嘘を言え。それに、こっちのこの絵。これは、みんなで日光浴している絵だろう?夕暮か、いやに画面が赤いような気もするが。
阿修羅1 何が日光浴ですか!これは、戦争で死んだ兵士たちの死体です!僕は、反戦を訴えようと思って描いたんですよ。
教授 それならば、私はもう何も言うまいな。
阿修羅1 どういうことです?
教授 お前には無理だ。お前には、絵本すら描けないだろうな。
阿修羅1 どうしてです?
教授 何かがないんだ。足りないものが、というより、お前の絵には、何もない。何を描こうとしている、阿修羅?何が言いたいんだお前は。…お前、何を考えている?何も考えてないだろうが!!
阿修羅1 教授?
教授 お前、本気で言ってるのか?
阿修羅1 僕、本気ですよ。
教授 これは、小学生並みだ。すばらしいの一語につきる。こんなもの描いてるのに、どうして世の中の人は、お前に天才なんぞという名前を付けるんだろうか?
阿修羅1 そりゃ、天才だからでしょう。
阿修羅2 きれいな絵は、描きますからね。人の顔色うかがって、きれいな色使って、気に入られるような絵を、描きますからね。教授。
教授 どうした?
阿修羅2 そうでしょう?そうなんでしょう、教授?今までの絵は、全部そうだったんでしょう?
父親 この子は一体どうしたんだ?何を言い出したんだ?
雪子 本当の阿修羅君。
阿修羅2 雪子ちゃん。
教授 知り合いなのか?
阿修羅1 この前僕を振った恋人です。
教授 それは知らなかった。雪子は、わたしの娘なんだが。
雪子 雪子だからいつも白い服を着ているというのは、ま、安易ですけどね。
阿修羅1 そうだったのか。僕も知りませんでした。
母親 教授のお嬢さんだと知っていたら、あんな邪険にはしなかったんですのに。雪子さんとおっしゃいましたね、あの節はどうも失礼いたしました。
雪子 許しません。
父親 強情な娘だ。
教授 わたしの娘です。
母親 おほほほほ、毎度毎度失礼いたしますわね。
雪子 絶対、許しません。阿修羅君を返して。
母親 一体誰に返せというんです?阿修羅は我々の息子。あなたにそんなことを言われる筋合いはございません。あ、あ、あなたみたいな女にくれてはやりませんのよ!
雪子 あたしにくれって言ってるんじゃないのよ。阿修羅君を、阿修羅君に返して。そう言ってるの。
父親 阿修羅は阿修羅のものですよ。何をおっしゃる?とんだ言い掛りだ。
雪子 言い掛りなもんですか。阿修羅君は、ほら!
(雪子、父親が踏み付けにしている阿修羅を助け起こす。)
雪子 阿修羅君を返すのよ。
教授 雪子、一体何がどうしたというんだ?阿修羅はどうなったんだ?
雪子 阿修羅君が、二人に分かれていくのよ。
教授 二人に。
雪子 阿修羅君は…
阿修羅2 僕は…僕は、いつまでも父さん母さんの赤ん坊じゃない。違う。何故?
母親 わたしたちは、ただ阿修羅に幸せな一生を送ってもらいたくて、こうやって一生懸命、あなたのために尽くしているのよ。それのどこがいけないの?
阿修羅2 違う。それは間違ってる。
雪子 ただの過保護だわ。
父親 そう言われても構わないと言っただろう。
阿修羅2 ただの馬鹿。
父親 そう、わたしたちは親馬鹿だよ。ただの馬鹿。それ以下でも、それ以上でもない。馬鹿なんだ。
阿修羅2 子供のことが見えないほどに抱き締めて、僕は息がつまり、骨が折れて死にそうなんだ。どうしてそこまでする?教授、助けて。僕は。
母親 どうしてそんなに嫌がるの?ほら、この子はこんなにいい子にしているのに。
阿修羅2 頭に花が咲いているぞ。挫折を知らない花咲き阿修羅め。苦労を知らずに育ちやがって。何の辛いことがあった?振られても、忘れてしまえばすむものな。いじめられても立ち上がれるのは、強いからじゃない。忘れてしまったからなんだな?僕は覚えているぞ。お向かいの勝久君と3軒向こうの新太郎君に、ウエスタンラリアートのうえ卍がための連続攻撃を受け、あまつさえ殴る蹴るの膀胱炎にかかったことも。
父親 だから、お向かいの勝久くんと3軒向こうの新太郎くんのご両親にはしっかりとお灸をすえて頂くように、きつくきつく言い渡しておいたじゃないか。何が気に入らない?
阿修羅2 だから忘れてしまったんだ。あんなこともあった、こんなこともあった。思い出してみればいつでもそれは、一万年分ぐらいのほこりを持って、色は褪せ構図は崩れた何とも昔の、大昔の過ぎ去った日の思い出のように、それほど感動のない出来事になっていた。そしていつしか無感動な思い出は歩調を早めて僕に追い付き、いつか、僕は…いつか僕は、無感動な今日に追い越されていた。父さん。毎日がとっても無感動だよ。昨日と全然変わらない今日だ。題材の静物は、昨日と全く変わらない、じっと座って僕が三角形に並べるのを待っている。
父親 阿修羅。感動なんて、する必要はないんだよ。いちいち一つ一つのことに目を奪われていてご覧。たった2回感動しただけで、目がなくなっちゃうじゃないか。
阿修羅2 そしていつか気付けば何も見えなくなっている。
雪子 阿修羅君。


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