(もう一人の阿修羅、花咲き阿修羅を抱えあげる。)
阿修羅1 分かりたかった。分かりたかったんだよ、本当は。世の中の出来事。世間の人々。人として生き、歩き、恋をして、悩み苦しむ。悩みたかった。苦しみたかった。もっと、いろんなことを考えたかったんだよ!
母親 嫌だわ、この子は。苦しみたがるなんて、それはマゾのすることよ。
雪子 一人の人間になるための、生まれる苦しみを?
父親 生む苦しみの間違いじゃないのか。
教授 しかし、阿修羅、お前はそこまで考えていながら、何故?
阿修羅1 ああ、それなのに何もかも。忘れてしまったんだ。
雪子 そんなに簡単に何もかも忘れてしまえるの?
阿修羅2 思い出が今日を追い越したから。色褪せた感動が、風に乗って風化してしまったから。
阿修羅1 雪子ちゃん、分かるかい?この僕にも、それなりの苦しみのあったこと。腕を奪われ、足をもがれて一人歩く自由もなく、いつか悩まずにすむ様にと自分の目を…目をつぶし。
雪子 阿修羅!
阿修羅1 だんだん目が見えなくなっていく。耳も、もう聞こえない。鼻も利かない。何も匂わない。これは何?触っても、もう分からないんだ。目が…目が、見えない。どこにいる?雪子、どこにいる?初めてお前にあった日のことも、忘れた。はじめから見えていなかったのかもしれない。見えない。見えないんだ。もう何も見えないんだ…
(もう一人の阿修羅、花咲き阿修羅を抱き締める。)
阿修羅2 父さん、母さん。僕は、立派に成長しました。こんなに大きくなりました。ですが、中身は今だに幼稚園児です。いえ、それ以下です。見るもの聞くもの全て色褪せています。どうして?僕を返して。小さい頃から何年もかかって僕から取っていった僕を返して。
阿修羅1 でも、阿修羅。それで、僕は生きていけるだろうか。
阿修羅2 どういうこと?
阿修羅1 両親の腕のなかで、僕は何も見ずに生きていた。ねえ、大変なんだろう、世界は。とっても難しいんだろう?人っていうのは。世の中には、大変な荒波がうねっているんだろう?ねえ、阿修羅。(もう一人の阿修羅にむかって)口を開けてご覧。
(もう一人の阿修羅、花咲き阿修羅にむかって口を開ける。花咲き阿修羅、おもむろにピンセットを出してもう一人の阿修羅の口に突っ込んで、魚の骨を押し込む。)
阿修羅2 阿修羅!阿修羅?(と叫ぼうとしても、実際は口のなかに花咲き阿修羅が手を突っ込んでいて悲鳴にならない。)
阿修羅1 死んでしまえ!お前なんか、魚の骨を喉につまらせて、胸の奥に心臓の鼓動と合わせてちくっ、ちくっと走る痛みを抱えたまま、死んでしまえ!
雪子 な…何をしているの、阿修羅!
(花咲き阿修羅、もう一人の阿修羅の首に手をかけてぐいぐいと締めあげる。)
雪子 やめて、やめて阿修羅!自分を殺さないで!あなたの目を、耳を消さないで!
阿修羅1 いいや、これでいいんだ。殺した後はきれいさっぱり忘れてやるから、大人しく、情けない姿で死んでいけ!二度と見たくない。こんな姿、これが僕?違う!僕は何にも見たくなんてないんだ。そうだ、そうなんだよ!
阿修羅2 何も見たくない?嘘…嘘だ‥そんなの、嘘…
雪子 やめて!自分を、阿修羅、あなたがその自分の姿をを見つめることが出来たら、その時あなたは。あなたは!
阿修羅1 僕が、なんだって?
(花咲き阿修羅、もう一人の阿修羅から手を放す。スローモーションで倒れていく、もう一人の阿修羅。)
阿修羅1 僕は、馬鹿になりたい。幸せな一生が送れるのなら、何も見ず、何も考えずに、ただその日を生きていくだけですむのなら、僕は喜んで馬鹿になろう。先のことなんか、絶対に考えてやらない。嫌なことは片っ端から忘れてやるんだ。僕は馬鹿のままでいい。馬鹿のまま、何も知らずに死にたい!
雪子 阿修羅!
(雪子、阿修羅に取りすがる。)
阿修羅1 やがて、僕は何もかも忘れてしまうだろう。その前に…
(花咲き阿修羅、もう一人の阿修羅の屍を抱きあげ、胸に抱き締める。)
阿修羅1 僕は、この阿修羅のことも忘れていくのか。自分の正義にのっとったあまり、正義の炎に包まれて、焼かれ苦しむ阿修羅の神だ。自分が自分の思うとおりに生きれば、それは阿修羅の生き方だ。
教授 仏はそれをよしとしないのだな。
阿修羅1 阿修羅…
(花咲き阿修羅、もう一人の阿修羅を抱いたまま、ふとつんのめって倒れる。)
雪子 阿修羅!(駆け寄って抱き起こす。)
教授 大丈夫、そっちの阿修羅は眠っているだけ。
雪子 もう一人の阿修羅は?
教授 死んだよ。
(両親が寄ってきて、そっと死んだ阿修羅を連れていく。)
父親 教授。
教授 どうしました?
父親 わたしたち、間違っていたでしょうか?
教授 いいえ。阿修羅は、これでいいんです。彼にこれ以上を望むのは無理でしょう。ただ…
父親 ただ?
教授 もう、阿修羅に世間の風を当てないように。それだけです。
(父親去る。)
教授 (眠っている阿修羅をじっと見て)邪気のない寝顔だ。最近は、子供でもこんな顔をしないというのに。
雪子 お父さん。
教授 目を覚ましたら、こいつはおそらく自分で自分をくびり殺したことなど忘れ、また同じ明日にむかって進歩のない努力を始めるんだ。阿修羅は、結局、自分を殺しても、何も変わらないんだ。成長を拒否した。ピーター・パンよりもおろかな子供だよ。
雪子 かわいそうって言っていいのかしら。
阿修羅1 誰が…?あ、雪子ちゃん。
教授 目覚めた。
阿修羅1 僕、彼女の膝のうえで寝てしまったんですか?
教授 そうだよ。
阿修羅1 申し訳ありません。ごめんね、雪子ちゃ…
(雪子、声をたてずに泣いている。)
阿修羅1 ゆ、雪子ちゃん?どうしたの?
雪子 かわいそうで…あなたが、かわいそうで。昨日を同じ今日を見送る人がかわいそうで。
阿修羅1 どうして?いいんだよ。明日は今日と同じでいいじゃないか。
教授 そんなこと言ってたら、毎日が腐るぞ。
阿修羅1 毎日が新鮮だなんて、誰が信じます?一日とは平凡なものでしょう。疲れて、眠って、また次の日も同じこと。新しいことをするためには、一体どれほどの汗と涙と、血を流さなければならないことでしょう?人は誰でも、その日その日をなんとかして生きてるんじゃないですか。人生、なるようになるんですよ。努力したって、無駄なことです。
教授 本当に?
阿修羅1 教授、何わけの分からないこと言ってるんですか?イーゼルを貸してください。次の絵を描かなきゃいけない。
(花咲き阿修羅、いったん引っ込んでそれからいそいそと画板を持ってくる。)
教授 あ、ああ、そうだったな…雪子、頼む。
(雪子イーゼルを持ってきて立てかける。阿修羅、自信満々に座って絵筆を持ち、パレットを取り上げて絵を描き始める。)
雪子 どうして?どうして今まであれだけの思いをその中に隠していながら、あんな絵しか描いてこれなかったの?本当に何も見えていなかったの?嘘でしょう、阿修羅?何も見ていない振りをしてきただけなんでしょう、花咲き阿修羅!頭のてっぺんに花が咲いてるわよ。本当よ。自分で植えた花が咲いているわ。自分で種をまいて、大切に大切に育てた馬鹿の花が。阿修羅。どうして。
阿修羅2 知っていたよ。
(花咲き阿修羅ともう一人の阿修羅がいつの間にか入れ替わっている。イーゼルにかけた阿修羅はもう一人の阿修羅。筆をかざす。)
阿修羅2 知っていた。けれど僕だって、悩みながらも、それは本心からではなかった。ねえ、雪子、知ってるかい?目が見えないふりをすると、自分の本心まで見えなくなるんだ。きれいさっぱり、どこへ行ったか分からなくなってしまうんだ。もう、僕には絵は描けない。もう、絵は描かない。
(阿修羅、顔の前にかざした筆を、教授と雪子の見守る中で、ゆっくりと力をこめて折る。)
雪子 阿修羅!
阿修羅2 魚の骨を抜いてくれてありがとう。おかげで、もう喉のはれも引いた。
教授 これからどうする。
阿修羅2 自分に出来ることをやりながら生きていきます。今の世の中ならば、それでなんとかなるんだから。
(阿修羅、去っていく。教授、阿修羅の残した絵を取り上げる。)
教授 やはり、わたしの目に間違いはなかった。
雪子 どうしたの?
教授 これは、すばらしい絵だよ。人間が、一生のうちに見られるかどうかというぐらいのすばらしい絵だ。阿修羅の絵だよ。阿修羅が描いたんだよ。
(教授、言うなり膝でもってその絵を割って捨てる。)
雪子 お父さん!何をするの、そんなすごい絵を!
教授 こんな絵を描く奴を、わたしは他に知らない。阿修羅。花咲き阿修羅。天才だった。
(言うかいわないかのうちに、母親が転がるように駆け込んでくる。)
母親 教授!阿修羅が!(膝をついて泣く。)
教授 ええ、知っています。
雪子 どうしたの?
教授 阿修羅が、死んだんだよ。
雪子 どうして!
教授 それでもあいつには、絵を描くことしかなかったんだ。それだけだよ。ただ、もう目が見えなくなっていたんだ。もう、何も見えなくなっていたからさ。目の前にある筆がどこにあるかすら分からなかったらしい。
(舞台暗転。舞台両サイドから二人の阿修羅が出てくる。)
阿修羅1 だんだん視力が落ちていく。こんな恐怖を、君は味わったことがあるか?
阿修羅2 昨日まで見えていた君の顔、今日あったら、もう輪郭しか分からなくなっているんだ。次の日に会うと、そこに人が立っているんだってことしか見えなくなる!
阿修羅1 大好きなものも、いつしか見えなくなる。ああ、どこにいる?なくしてしまった僕の…僕の…
(宙を探りながらお互いに近付いていく。)
阿修羅2 どこにいる?声さえも聞こえない…この淋しさが分かるか!
阿修羅1 どうやったら人に触れられるのかも分からない。この淋しさが分かるか!
(二人の阿修羅、互いを見つけてしっかりと抱き合う。)
阿修羅2 ああ、今度こそ僕は自分をなくさない。
阿修羅1 自分の見つけた感動をなくさない!
阿修羅2 ほら、ご覧。あれが。あの絵だけは、今でも見える。
阿修羅1 昔、絵を描いた。小学生の頃、図画工作の時間に絵を描いた。遠足で行った動物園の動物を描いてご覧なさいと言われて、僕は、一生懸命に、一羽のオウムの絵を描いた。
阿修羅2 赤い羽、灰色のくちばし、真っ黒な瞳の、大きなコンゴウインコ、金網の中に入れられて、外から来た雀たちは自由に出たり入ったりしてそのオウムの餌を食べているのに、そんなオウムを描いた。何故と言われても、そのオウムが何だか目をくりくりさせて、僕の顔を見て、それでも何も言わずにまたよそを向いてしまった、その肩すかしな気分をいつまでも覚えていたかったから描いたんだ。
阿修羅1 あの絵は今でも覚えている。あそこに見えるのが。
阿修羅2 僕が一番最初に描いた絵。
阿修羅1 そして、僕が、一番最後に描いた絵。
(背景には大きなコンゴウインコの絵が描いてある。幕。)
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