第二章 訪れし者たち(前編)
深夜、王城は静まり返っていた。
半年前の悪夢がよみがえる。誰もが、新しい敵の襲撃に不安の色を隠せないでいた。新兵たちは神妙な面持ちで自分の持ち場につき、油断なく目を光らせている。
その中を、静かに進む人影があった。
目指す先は、王の私室。何度も通った事のある勝手知ったる道程を、今は盗賊のように足音を忍ばせて歩いて行く。
「誰だ!?」
ふいに、背後から声が上がった。
「ちっ」
彼は振り返り、声の主を確認した。数メートル後ろの角から出てきた若い衛兵が、槍を構えてじりじりと彼に近付いてくる。
「何者だ?名を名乗れ」
「俺か?」
明らかにあやしい侵入者だが、悠然と笑って答え、無防備に両手を広げた。
「お前、俺の顔を知らないのか」
「えっ…?」
言われて一瞬、衛兵が目をこらす。男はその隙を見逃さなかった。
「おま……っ!!」
やわな新兵のみぞおちに、的確かつ重い一撃が入った。
あっけなく気を失った青年をそっと床に横たえ、辺りの様子をうかがう。しかし、しばらく待ってみても、それ以上誰かが来る気配はなかった。
彼は自慢の拳を開いて、小さくため息をついた。
「簡単に行くのはありがたいが…警備がこれじゃ、先が思いやられるな」
ちゃんと言ってやらなければ――あいつはお人好しだから。
大柄な体をすくめるように、彼はまた歩き始めた。
燃え尽きたロウのくずを取り除き、新しいロウソクにそっと火を灯す。壁に映った影が、また色を濃くする。
「殿下」
火口の始末をし終えた娘が振り返り、ベッドの傍らでまんじりともせず座っている王子に声をかけた。
「そろそろお休みになって下さい。お体に障ります」
「うん…」
しかし、ウィーダの答えは生返事だった。あれから一向に目覚める気配のないミラノの手を握り締めたまま、夕食すら取らずにずっとこうして座っているだけなのだ。
入団したての見習い騎士、カリンは眉を寄せ、静かに王子の足元に膝をついた。
「殿下。見張りは、ちゃんとわたくしが致します。何かあったらすぐに殿下を呼びます、だから、どうか休んでください」
「…うん」
やはり気の抜けたような返事をしただけで、ウィーダは動かない。
生まれた時から彼の瞳は暗く濁って用をなさず、ずっと暗闇の中で生きてきた。そんな不遇の王子を育て、光を与えたのが、メイド長でもあり親衛隊長でもある堕天使ミラノだと聞かされている。彼にとっては母親でもあり、恋人でもあるのだ。
カリンは黙ったまま、ウィーダの足元に座った。女性であるカリンがミラノの番をすれば、王子も安心するだろうという騎士団長フォルドの配慮ではあったが、残念ながらそんな気遣いは無駄に終わりそうだ。
静まり返った室内に、涼しい夜風が吹き込む。
「……ふぁ、あっ」
小さなあくびをして、カリンはあわてて自分の口を押さえた。だが、目が見えない分だけ他の感覚の鋭いウィーダは、噛み殺した声に気付いて、初めて彼女の方に顔を向けた。
「カリン」
「は、はいっ…も、申し訳ありません、寝ずの番を…」
「構わない」
年若い王子は微笑んでいた。
「眠いなら遠慮なく眠るといい。私のことは気にするな」
「で、でも…」
「それではフォルドに叱られてしまうか」
ずばりと言い当てられて、カリンは困ったように目を泳がせた。
「は、はぁ…」
「だが、少しぐらいここで居眠りをしても構わないだろう」
まぶたを閉ざしたままウィーダは告げて、またミラノの方へと向き直る。規則正しい寝息がずっと聞こえている。
カリンのまぶたは言われるまでもなく、眠気に負けて半分閉じかかっていた。
その時、静かに部屋の扉がノックされた。
「は、はい!?」
あわてて騎士見習いの少女が飛び起きる。
「ど、どなたですか?」
「――俺だ」
ささやくような、低い声だった。
「ウィーダ、いるか?」
他の人間に気付かれないよう、声を潜めているような気配。しかも、王子のことを呼び捨てだ。
「何者でしょう…?」
ただならぬ気配を感じ取り、カリンは剣の柄に手を伸ばした。ベルトの金具が揺れて、小さくカチリと音を立てる。
「カリン、心配いらない。剣は収めてくれ」
そんな彼女を制し、ウィーダは静かに応えた。
「あれは私の友人だ。通してくれ」
「ですが、こんな夜更けに…ですか?」
「ああ」
さも当然、と言いたげに彼はうなずいた。使いの者も寄越さずに突然来るなど、普通ではあり得ないが仕方がない。カリンは静かに部屋の扉を引いた。
「邪魔する」
憮然とした顔つきで入ってきたのは、大柄な男だった。
軽く彼女より頭二つ分は背の高い男の顔を見上げて、カリンが小さく声を上げる。
「あっ…あなたは、もしかして」
鍛え上げられた筋肉と、短く刈った濃いグレーの髪。ガルダンが最強と誇った無敗の奴隷剣闘士、クザン・ディ・ガルダンだった。
奴隷とは言っても、先の魔人討伐においてウィーダの片腕を勤め上げた功績で、今はもう自由な身分になっている。
「クザン」
近付いてくる足音に、ウィーダが声をかけた。しかし、久しぶりに会ったというのに笑顔のない固い表情に、クザンは短く尋ねた。
「どうした、ウィーダ?」
黒い魔獣に乗った賊が、聖槍シャイニーフェイバーを奪い去っていくのは彼も見た。そのために式典は中止になり、一般市民の城への立ち入りは禁止された。
そこまでは分かる。だが、それきり、城のほうでは何の動きもない。クザンには、それが腑に落ちなかった。
「私はどうもしていない」
ウィーダは答えて、ベッドの方に顔を向けた。彼の傍らに立ったクザンも同じように頭をめぐらせ、そこに横たわるミラノを見た。
「…寝てんのか?」
「ああ」
沈んだ声だった。
「槍を盗みに来た盗賊が、呪いをかけていったらしい。いつ目覚めるかは、分からないそうだ」
「そうか」
クザンは腕組みをしてうなずいた。
「それでか…お前も大変だったんだな」
「も?」
「報告は受けてないのか?こっちも大変だったんだぞ」
言っている意味がよく分からないといった様子のウィーダに、彼は詳しく盗賊の話をして聞かせた。それは、フォルドの報告とはまるで違っていた。
ロウソクの火も落ちて暗く静まり返った廊下に、騎士の靴音だけが響く。
フォルドは王の寝室の前で立ち止まり、小さくノックをした。
「カリン、起きているか?私だ」
「は、はい」
小さな声で返事があった。だが、ノブに手をかけても扉は開かなかった。
軽い足音が近付いてくるのが聞こえて、扉の隙間からささやき声が漏れた。
「すみません、団長。鍵をかけてるんです」
「いや、それならいい」
フォルドは安堵の微笑を浮かべて、扉の向う側の部下に声をかけた。
「殿下は?」
「このまま、ここでお休みになられました。ミラノ様のご様子は、特に変わりありません」
「そうか」
はっきりとした答えにうなずく。騎士には向かない娘かと心配していたが、思っていたよりもしっかりしていた様だ。
「私も今夜は一晩中起きている。何かあったら、すぐに呼ぶといい」
「はい、ありがとうございます」
「では、詰所にいるからな」
「はい」
手短に会話を切り上げて、フォルドは寝室の前から立ち去った。
次第に遠くなっていく足音を確認し、カリンはほっと息をつく。そして、ミラノの眠るベッドサイドに戻った。水差しからコップに一杯水を汲んで飲み干し、またふぅとため息をつく。
…嘘がバレなくて、良かった。
椅子に座り、胸を押さえて深呼吸する。実は、この部屋には、彼女とミラノしかいないのだ。
クザンから朝の事件の詳細を聞いたウィーダは、怒った。
「何だと?女性が一緒にさらわれた!?」
「ああ。やっぱりそれじゃ、知らなかったんだな。そうじゃねえかとは思ったが」
「当然だ。知っていたら、すぐに追っ手を差し向けた!」
いつもは穏やかな王子の豹変ぶりに、カリンは驚いていた。
「槍なんかどうでもいいのに…カリン!」
「は、はいッ!」
突然振り向かれて、彼女はびくりと身をすくませた。ただ優しいだけの人だと思っていたが、それは間違いだった。
たった一人の市民のために、これ以上はないという程に怒り、知らなかったことを悔いている。
「お前は、賊が女性を連れ去ったのを知っていたか?」
「は、はい…」
「では何故、私に知らせなかった?」
まぶたは閉じているが、何故かじっと見つめられているような気がしてならなかった。カリンはうなだれ、視線を外して答えた。
「それは…フォルド様が、それは殿下が気になさるような事ではないと…」
「フォルドが止めたのか」
「……はい」
完全にしょぼくれて、平伏してしまったカリンの肩を、クザンが叩いた。
「嬢ちゃん。ウィーダが一番嫌うのは、それなんだよ」
目が見えないからこそ、周りで起こったこと全てを教えてもらわなければならないのだ。一つでも隠し事があれば、ウィーダは正しい判断を下すことは出来なくなってしまう。
今回の事でも、ミラノの方に重きを置いてしまっていた。
「ミラノは、死にはしないのにな」
さらわれた娘は、どうなるか分からない。国王として、どちらを優先すべきかは明白だった。
カリンは頭を上げて、主君の顔を見た。
「殿下…申し訳ございません」
「もういい。お前はフォルドの命に従ったに過ぎない」
そう言って、ウィーダは椅子から立ち上がった。
「クザン、お前が来てくれて良かった」
「なに」
クザンが笑う。
「さらわれたのはな、俺が世話になってる薬屋の娘さんなんだよ。お前と親友だっておかみさんに大見得切って出てきた以上、お前に動いてもらわなくちゃならなくてな」
「こういうことなら、いくらでも動こう」
わずかに明るくなった表情を見せながら、王子は真っ直ぐ部屋の隅へと向う。カリンは、ウィーダが何をするのか分からなくて、床に両手をついたまま見送った。
「ちょっと手伝ってくれ」
「おう」
通常、王族というものは、儀礼用の衣装はもちろん、平服や武具、防具なども専用の別部屋に用意している。しかし、ウィーダは狭い塔の小部屋に閉じ込められて暮らしていたため、身の回りの品はすべて手元に置いていた。部屋の隅に置いてある大きな木箱には、旅に出ていた時の装備が一式入っているのだ。
クザンの手を借りながら、動きやすい服装に着替え、手に馴染んだ小槍を持つ。その格好を見て、カリンが声をあげた。
「ま、まさか、殿下」
「ああ。行ってくる」
ウィーダは事も無げに答えた。
「私がいないからといって、今さらどうこうなるガルダンではない。大丈夫だ」
「でも!」
「シャウラに会いに行くだけだ」
そして、彼は微笑んだ。
「だからカリン、お前には重要な任務を命じる」
「え?」
「私がここからいなくなった事を悟られないよう、なるべく時間を稼いでくれ」
笑顔だったが、その中にはしっかりとした決意も浮かんでいた。カリンはじっとウィーダの顔を見つめ、それからうなずいて頭を下げた。
「御意。出来る限り、頑張ります」
「ありがとう――では、頼んだからな」
そして、ウィーダはクザンに担がれて、窓から出て行った。
だから今は、この部屋にはカリンとミラノ、二人だけ。
頑張らなくちゃ、と騎士見習いの少女は気合を入れなおし、手を伸ばした。何があっても大丈夫なようにミラノの手をしっかりと握り、まぶたを閉じる。
少し眠っておこう…一人で頑張らなければならないのだから。優しい新王の期待に、応えなければならないのだから。