第二章 訪れし者たち(後編)
まぶしい太陽の光、風に揺れる木の葉のざわめき、遠くでさえずる小鳥の声。人の手の入らない森の奥は、どこまでも平和だ。
その中で、一際大きな魔獣の咆哮が、妖精たちを驚かせた。
「クアーッ!!」
「きゃーっっ!!」
ピンク色の軌跡を描いて飛ぶ小さな少女たちは、あわてて彼の頭に飛びついた。光を浴びて金に輝く、長く美しい髪の主人。
「どうした。うるさいぞ、お前たち」
額に張り付く妖精を指先で引き剥がし、ぽいと中空へ放る。だが、捨てられた妖精はまた彼の肩にすがりついてきた。
「シャウラ様、シャウラ様!ラードラが吠えてるよ」
「分かっている」
面倒くさそうにわずかに眉をしかめ、目の前に飛び出してきた妖精たちを見た。三つ子の姉妹でチャリク、チュリカ、チェリコというのだが、全く同じ顔をしているため、どれが誰なのかはシャウラにも判別出来なかった。
「そんなことは、聞けば分かる。私が知りたいのは、何故吠えているかだ」
そう答えて、彼は片手で妖精たちを押しやった。
柔らかい下草を踏んで立ち上がる。辺りを見回すが、さっきまでそこに伸びて眠っていたグリフォンの姿は見当たらなかった。
「…どこへ行った?」
鮮やかな緑色の木立の向うで、また吠える声がした。だが、それはやがて侵入者を威嚇する声ではなく、何かを喜んでいるかのような高い鳴き声になった。
「何の騒ぎだ、一体」
シャウラは腕組みをしたまま、グリフォンのラードラが騒いでいる方に目をやった。ばさばさと荒々しく翼をはためかせる音が近付いてきたかと思うと、木立ちの切れ目から巨大な魔獣が姿を見せた。
「お久しぶりです」
その傍らに、一人の青年も共にいた。
「…アンディか」
シャウラは目を細めて、懐かしげに銀髪の青年を見つめた。
半年前、シャウラの養父を倒すために、共に旅をした友人。魔界に連れ去られ、魔人として育てられてきたシャウラに、臆することなく接してくれた仲間たちの一人だ。
「こんな所にいたとは思いませんでしたよ」
アンディはそう言って、のんびりと辺りに視線を巡らせた。ここは少し開けているが、他は鬱蒼と茂った深い森だ。だが、それもあまり大きな森ではなく、抜けたところには小さな人里もあった。
その村では、この森にやたらと人懐こい魔獣が住んでいると噂になっていた。それを聞いて、アンディはここへやって来たのだ。
「そうか?」
前と変わらない穏やかな司祭の笑顔に、シャウラは無愛想に答えて下草を示す。座れ、という意思表示なのは分かったが、アンディは首を横に振った。
「いえ。今日は、あなたを連れ出しに来たからいいんです」
「連れ出す?」
「はい」
ほんのわずかだけ、シャウラが眉をひそめた。
「すみません…分かっています、あなたがここから離れたくない事」
アンディは顔を伏せる。
人間でありながら、まだ人間としては生きられない。かといって、魔人として魔物たちの中に戻ることも出来ないシャウラ。
仲の良いラードラや、気を使う必要のないお気楽な妖精たちに囲まれて静かに過ごす時間が必要なのはよく分かっていた。
しかし、彼は前を向いて、じっと友人の顔を見据えた。
「でも、どうしても、ついて来て欲しいんです」
「……どこへ?」
どうして、とは聞かなかった。
「それは…まだ」
答えに詰まって、アンディはまた顔を伏せた。
「ですが、これは…バスラムの女王陛下の依頼でもあるんです」
「女王」
問い返して、シャウラはわずかに驚きの表情を浮かべる。
彼が生まれたのは、海を越えた大陸にある小国バスラム。正当な王位継承権を持つのはシャウラではあるが、彼に王位を継ぐ意思はなかった。したがって、今は彼の叔母であるマァナが女王として国を治めている。甥の事情をよく分かった上で、すべてを許してくれている、よく出来た女性だ。
「叔母上が、一体何を?」
「はい」
アンディはひとつ、深呼吸をした。そして、意を決したように顔を上げ、告げた。
「王女が…クプシちゃんが、行方不明なんです」
魔人将軍ウェグラーによって、壊滅的な打撃を被ったのは、ガルダンだけではなかった。バスラムもまた、計り知れない衝撃を受けた。
そして、この国もまた、立ち直りつつあった。魔力によって枯れた砂漠には雨が降り、緑が戻り始めている。何よりも、新しい女王マァナとその娘、王女クプシの存在が、国民を力づけていた。
だが――その、愛らしい少女が消えた。
シャウラはじっと黙って、アンディの次の言葉を待った。
「ガルダンのもっと北方に、魔術師ギルドの総本山があるのは知ってますか?」
彼はうなずく。世界中の魔術師たちを統括し、養成する組織。魔法を生業としようとする者ならば、避けては通れないのが魔術師ギルドであり、その総本山とには、最も優秀な魔術師たちが集っているという。
「そこからクプシちゃんに招待状が来たのです。総本山で修行してみないか、と」
「なるほど」
それはもっともな話だった。
クプシは、強力な魔力を持っていた。母親の手ほどきで、普通の魔術師として十二分に通用するようになってはいたが、彼女の能力はそんなものでは終わらなかった。
空間をねじ曲げ、はるか遠い距離を越えて、この世界とは違う場所との道を開き、異界のモノを呼び出す力。その気になれば、一個大隊ほどの魔物の群でも、天高くある星々でさえも、手に入れることが出来る。
彼女は、生まれながらに召喚士としての素質を持っていたのだ。
「あの力――もしコントロール出来なければ、国の一つぐらい簡単に滅びますからね。クプシちゃんはそれを知っていたから、自ら行くと言って。マァナ様は反対したのですが…それが正しかった」
いつまでたっても供の者たちが戻ってこない。クプシが総本山に着いたという連絡もない。
「尋ねてみても、ギルドの方は、そんな招待状は知らないというんです」
巧妙な罠だったのか、何かの手違いかは分からない。ただ、少女が旅の途中で行方不明になってしまった、という事実だけが残った。
「それで、叔母上が私に」
シャウラはそれだけ言って、口を閉ざした。不安げに、アンディは彼を見つめる。
「僕…少し、心当たりがあるんです」
やがて、長い沈黙の後、司祭は穏やかな声音で静かに言った。
「一緒に来てもらえませんか、シャウラ」
やや固い声。見ると、アンディの顔から笑顔は消えていた。
一瞬だけ、シャウラは迷った。友人から、何か不思議な違和感を感じたからだった。
どんなに困難な事態に陥っていても、落ち着いていた。苦しくても、辛くても、アンディがこんな表情を見せたことはない。優しい微笑か、真剣な眼差しをしているところしか、見たことはなかったのに。
笑うどころか、この顔はまるで――いつだったか昔、鏡で見た、自分の顔のようだ。
「駄目…ですか?」
「いや、構わん」
彼はその思いを振り払うかのように小さく頭を振って、答えた。
「行こう」
「良かった!」
たちまち、アンディがぱっと顔を輝かせた。
「そう言ってくれると思ってましたよ」
もう、いつも通りだった。彼の顔に、さっきのような影はない。人柄が自然ににじみ出るような優しい笑顔に戻り、アンディは少しだけすまなさそうに言った。
「それじゃ、急かすようですが、すぐに支度してもらってもいいですか?」
「ああ」
見間違い…だったのか?
違和感を拭えないまま、シャウラは立ち上がる。その彼の肩と髪に、三人の妖精たちがしがみついてきた。
「シャウラ様…行っちゃうの?」
「ああ」
素っ気ない返事に、彼女たちはお互いの顔を見合わせ、そしてもっと強く彼の近くにくっつく。一人が、耳元にささやいた。
「でも、あの人…なんだか怖いの」
消え入りそうな声だった。
「怖い」
「怖いよ、シャウラ様」
「そんなことはない」
小さな頭をなでてやり、シャウラは友人を見つめた。
そう、そんなことはない。あの時の友の中でも、一番穏やかで、心優しい男ではないか。いくら自分が人の心に疎くとも、それぐらいは分かっている。
「心配するな、少し出かけてくるだけだ。留守を頼む」
「シャウラ様…」
泣きそうな顔をしながら、妖精たちはうなずいた。そのまま、静かに羽を震わせて離れていく。
「では、行こう」
今は、クプシを探し出さねばならないのだから。
自分にそう言い聞かせ、シャウラは、アンディの傍らに並んで立った。わずかに残る違和感を、いつまでも気にしている暇はなかった。