第三章 足跡(後編)
「お、お前は!!」
その後ろ姿を見た瞬間、クザンは叫んでいた。
「なんで、ここに…!」
森の中にぽっかりと開けた空間。そこに立っていたのは、探していた人物ではなかった。だが、ある意味、一番会いたかった人物ではあった。
クザンはウィーダを下ろし、さらに続けた。
「ティアはどうした!彼女を、どこへやった!?」
ティアというのは、盗賊にさらわれた女性の名前である。ウィーダはとっさにクザンの腕をつかんだ。
「待て、クザン!では、そこにいるのは」
「奴だ」
小柄な体に、異国風の黒い装束。二人に背中を向けたまま、男は悠然とグリフォンの頭をなでていた。
「ミラノに呪いをかけて聖槍を盗み…ティアをさらった。あの男だよッ!」
吐き捨てるようにクザンは言い、ウィーダを連れて一歩前に進み出た。
「おい、お前…何とか言ったらどうなんだ?」
「……」
返事はない。その代わり、男の傍らにいた魔獣が顔を上げて、二人に応えた。
「キュオォ」
「ラードラ…なのか」
ウィーダが名前を呼ぶと、魔獣は嬉しげにさらにもう一声吠えた。
「シャウラはいないのか?まさか、クザン」
「いや」
自分の言葉を確認するかのようにゆっくりと、クザンは説明する。
「この男はシャウラじゃない…背も低いし、髪の色も違う」
だが、何か引っかかる。この細い背中は、どこかで見たことがあるような気がする。
賊は覆面を鼻の上までしっかりと引き上げると、肩越しにちらりと二人を振り返った。
「おっ…やる気か」
クザンは挑発するかのように、自信に満ちた笑みを浮かべて見せた。シャウラには会えなかったが、ここでこの男を捕まえられればすべては解決だ。一瞬で、飛びつけない距離ではない。拳闘士として鍛え上げられた筋肉を静かに緊張させて、彼は様子をうかがった。
言葉はなかったが、ウィーダもその気配を敏感に感じ取り、いつでも魔法を放てるように身構える。
「逃げられると思うなよ」
じっとこちらを見つめる瞳に、クザンが告げた。
「俺は今、機嫌が悪い。勢い余ってぶん殴る前に、いい子だから謝っちまいな」
しかし、黒装束の男は再び彼らに背中を向けた。そのまま、黙って首を左右に振る。従う意思は、ないようだった。
「ほう…いい度胸してるじゃねえか」
拳闘士の声が、低く響く。
「それじゃあ、死にてえんだな!!」
少なくともガルダンには、素手で彼に勝てる人間はいない。数歩の距離を一瞬で詰めて、クザンは賊に掴みかかった。腕をつかんだ、と確かに思った。
だが。
「……!?」
布にくるまれていたのは、ただの棒切れ。
クザンがそれに気付いて顔を上げると、賊はすでに数メートルも先に立っていた。
「魔法か…?」
男はまた首を振った。そして、じっとクザンを見つめたまま、胸元から何か小さなボールを取り出し、二人の方へと放り投げた。
「しまった!」
状況をつかみ切れないウィーダが、無防備なまま立ち尽くしている。クザンはとっさに彼の下へ駆け戻り、かばうように抱いた。
空気を割って、パァン、と高い音が響いた。
盲目の美青年と、筋骨隆々の拳闘士、という組み合わせはやはり目立つようだ。
カリンとフォルドは馬を飛ばし、半日ほどで問題の森へとやって来た。
「ここに、殿下とシャウラが…?」
「村の人の話だと、ここしかないですよね」
何の変哲もない小さな森に見えるが、ここに魔人の息子にして、勇者でもあるという男が暮らしているという。フォルドは、傍らにいるカリンに気付かれないように、静かに大きく息を吐いた。
彼の話をするウィーダは、いつも楽しげだった。
外の世界を何も知らずに育った王子にとって、すべてが予想だにしなかった出来事だったのだろう。多くの仲間たちとの旅が、新鮮で刺激的だったことに間違いはない。
しかし、ウィーダは王位を継ぐべき王子なのだ。先王の仇を討つという責務を果たした以上、もはや勝手に城を出歩いていいものではない。いくら平民になったとはいえ、以前は奴隷拳闘士だった男だの、ましてや、勇者とはいえ半分魔人のような輩と、いつまでも親しくしてはいけないのだ。
それを分かってもらわなければ、困る。騎士団長は心の中でしっかりとうなずいて、部下を振り返った。
「行くぞ」
フォルドは短くきっぱりと言って、馬を降りた。手近の木に手綱をくくりつけ、鞍につけていた荷物を背負う。カリンもあわてて後に続き、そして、ふと、空を見上げた。
太陽の光を遮って、黒い影が彼女たちのはるか頭上を横切っていくのが見えた。
「あれは…」
新王の即位式典でも、中庭の端から見た。
「団長、あれを!あそこ!!」
「どうした?」
カリンの指差す先を、フォルドも見上げた。
悠々と飛び去っていく黒い魔獣。その背中にまたがっている黒い影。
「まさか…ッ」
嫌な予感が彼の胸を過ぎった。魔人シャウラは、魔獣をなんなく乗りこなすという。
まさか殿下は――犯人がシャウラだと思って、単身ここへ来たとでもいうのか。
血の気が引いていく思いがした。
「団長ッ!」
カリンが叫ぶのも構わず、フォルドは荷物を捨てて走り出した。下生えに何度も足を取られながら、それでも、一心に森の奥を目指して。
「殿下ッ!ご無事ですか!!」
目の前の光景がぱっと広がった。空き地に人影を見つけて、大声で呼びかける。
「待って…だんちょ…」
すぐにカリンも追いついてきた。そして、二人は、思いがけない光景を見た。
ウィーダがクザンの上に馬乗りになって襟首をつかみ、締め上げているところだった。
クザンの体なら、そんなものは痛くもかゆくもなかっただろう。
しかし、わずかに苦しげな息づかいが伝わって、ウィーダはすぐに後悔した。そっと手を離し、うなだれる。
「……す…すまない」
「いや」
喉元に手をやって、クザンが歯切れの悪い口調で答えた。
「俺も…」
だがその後の言葉はなかった。二人の側に、ゆっくりと近付いてくる人間がいたからだ。
「一体、何をなさっているのですか?」
「その声…フォルドだな」
「はい、殿下」
困ったようにフォルドは答えた。ウィーダの危機に駆けつけたつもりだったが、この状況はまるで理解できない。賊が飛び去った後のはずなのに、何故、王子と拳闘士が喧嘩をしていなければならないのだ。
「それで、その格好は一体…?」
「あ、ああ」
あわててウィーダは、クザンの上から下りた。そのまま、草の上に座り込んで、叱られた子供のように小さく膝を抱えた。
「いや。何でもない」
「そんなはずは、ないでしょう?」
「いや、何もなかった」
王子の代わりに、起き上がってきたクザンが答える。
「お前こそ、ウィーダに何の用だ?その格好だと、城の騎士か?」
「ああ」
主人を呼び捨てにするのは非常に気に入らないが、今はそんな細かいことを気にしている場合ではない。フォルドは湧き上がってくる怒りをこらえながら返事をした。
「いかにも私はガルダンの騎士だ。団長の、フォルドだ。殿下をお迎えに上がった」
「ふーん…」
途端に、クザンが不機嫌そうな顔つきになった。立ち上がると、フォルドよりわずかに背が高い。そのまま彼は、騎士団長に詰め寄った。
「それじゃお前か。善良な一般市民が賊にさらわれたのに、それを王子に報告しなかったバカ騎士っていうのは」
「なっ…!」
「そこのお嬢ちゃんに聞いたぜ?お前が口止めしたんだってな」
急に話を振られて、カリンが身をすくませた。明らかに、クザンとフォルドの間は急速に険悪になっている。止めなければ、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いだった。
「あの時は非常事態だったのだ!お前だって、殿下の部屋まで来たなら見ただろう!ミラノ殿のあの姿を」
「じゃあティアはどうなってもいいってのか!!」
「だからといって、殿下を誘拐して良いわけがないだろう!!」
次第に声が大きくなる。文字通り、火花の出そうなにらみ合い。しかし、二人とも、ウィーダの言葉で我に返った。
「やめるんだ、二人とも」
草の上に立ち、王子は静かに言った。
「今は、争っている場合ではない」
苦しげな主君の表情に、フォルドが言葉を飲み込む。クザンは渋々といった様子で、ウィーダの側に戻った。
重苦しい沈黙が、辺りを支配する。張り詰めた空気を何とか和ませようと、カリンは三人の様子をうかがい、必死で口を動かした。
「あ、あの」
「どうした、カリン?」
ウィーダが応じる。
「わたくし…すみません、殿下の行き先を、その、団長に」
「ああ」
しどろもどろになる彼女に、王子はようやく優しい微笑を見せた。
「大変なことを押し付けてすまなかったな。よくやってくれた」
「それでは、シャウラ様にはお会いできたのですか?」
ほっと息をつきながら、カリンはさらに尋ねる。
「いや」
その問いに首を横に振り、ウィーダは眉を寄せた。
「シャウラはいなかった。その代わり」
そのまま、口を閉ざす。困惑と不安が入り混じったような複雑な表情を浮かべて、王子は横を向いた。
「その代わり…?」
「会ってしまった――彼に」
その言葉に、クザンまでもが苦い顔をした。
ウィーダの言葉が示す、彼というのが、例の黒い魔獣に乗った賊だというのは容易に分かる。だが、何故二人がそんな顔をしなければならないのか、フォルドとカリンには分からない。
「彼って、誰です?」
「言えねえよ」
クザンが吐き捨てるように答える。
「俺だって、信じられねぇ。この目で見たのに、信じられねぇんだよ!」
一体、何を。
無言の問いかけに、拳闘士は頭を抱えた。
「あいつが、やったなんて……そんなの」
呆然と騎士たちが見つめる前で、二人は同じ言葉をつぶやいた。
「嘘だ」