双天の剣 第二幕
〜Princess of Flare〜

第四章 夢の街イルクラチア(前編)

 そこには、この世のすべての快楽があり、すべての富がある。
 あらゆるモノを手に入れることが出来る場所。何もない荒野に咲く、美しい大輪の華。
 夢と――欲望で出来た不夜城、イルクラチア。
 「ここがそうです」
 司祭はそう言って、楽しそうに笑った。
 城壁をくぐった途端、全くと言っていいほど変わってしまった風景に、さしものシャウラも少々驚いている様子だった。枯れた大地に申し訳程度の草木が生える荒野のど真ん中とは、到底思えない。
 「ああ」
 もの珍しそうに辺りを見回しながら、シャウラは答えた。大通り沿いに並んでいるのは、酒場とカジノと娼館ばかり。そのどれもが派手な看板を掲げ、うるさいぐらいに呼び込みの声を張り上げていた。
 「この街は…歓楽街なのか」
 「ええ。美しいでしょう?」
 普通の石畳の代わりに輝石を敷きつめた大通りは、ゆったりと曲がって小高い丘を目指す。その先には、領主の館と思しき、巨大で壮麗な館が見えた。夕暮れ時の赤紫色の空を背景に、まるで一枚の絵画のような、現実味の薄い光景だった。
 「しかし、何故こんなところへ」
 目の前を歩いて行く、真面目で地味な司祭のたたずまいは、見るからに街の景色から浮いていた。事実、通り過ぎる人々は、不思議な物でも見つけたような顔つきでアンディを見て行く。こんな街には、神を信奉する人間など似合わないし、その必要もないからだ。
 「歓楽街は、ただの飾りに過ぎませんよ」
 だが、どんな目で見られても、彼はいつも通りの笑顔を見せたままだった。
 「用があるのは、裏側」
 「裏側?」
 「ええ。この世で手に入らないモノはないと言われるほどの、犯罪都市…それが、イルクラチアの正体です」
 そして、アンディは建物の間に見える薄暗い路地を示した。狭い隙間の向うに垣間見える裏通りは、確かに大通りとはまるで違う、沈んだ色をしていた。知らずに迷い込んだ者は、二度と戻っては来れないのだろう。
 「人間だって売っていますから、もしかしたら、と思って」
 銀髪の青年は、物騒な言葉を続けながら先を急ぐ。シャウラは尋ねた。
 「アンディ」
 「はい?」
 「何故、お前がこんな街を知っている?」
 いくらシャウラが人間の世界に疎くとも、それぐらいは分かる。彼は、この街には相応しくない。
 アンディは立ち止まり、じっとシャウラの顔を見上げた。
 「それは…」
 それから、右手で左肩をつかみ、顔を背けて答えた。
 「ここが、僕の故郷だからです」
 少しうつむき加減だったが、彼は笑っていた。
 「生まれた場所こそ違いますが、僕はここで育った…犯罪都市の、住人なんです」
 「何だと?」
 「歩きながら話しましょう」
 アンディは顔を上げた。
 「あそこまで、行かなくちゃいけません。まだ距離がありますから」
 そう言って示した先は、大通りの先にある、この街で最も大きな館。次第に濃くなっていく空の紫に縁取られて、不気味な威圧感をかもし出している、領主の館だった。

 「この街を取り仕切っているのは、盗賊ではありません」
 アンディは落ち着いた表情で、淡々と告げた。
 「魔界に住まう暗黒の魔王…邪神を信奉する、邪教の信者たちです」
 目的地が近付くにつれ、彼の言葉が真実である事を、シャウラは感じ始めていた。庭を取り巻く長い柵が、建物の外装が、見覚えのある紋様で飾られている。
 彼が育った環境にもよく描かれていた、禍々しいパターン。
 館というより、城に近い高さを見上げて、シャウラはつぶやくように尋ねる。
 「こんなに多く…そんな人間たちがいるのか」
 「ええ」
 魔王を信奉する人間なら、魔人の城で暮らしていた頃にも見たことがあった。だが、その数はごく僅かで、気に留める程ではなかった。そんな人間は、特殊な存在なのだと思っていた。
 「どうして、人間なのに魔王に従う?」
 「それは分かりません」
 司祭はわずかに笑みを見せる。
 「神を信じるのも、魔王を信じるのも、人それぞれの理由があるでしょうから。光か闇か、ただそれだけの違いです」
 あっさりと言ってのけて、彼は固く閉ざされた門扉の前に立った。
 門番の姿はなかった。ただ、魔王の紋章を浮き彫りにした大きな錠が、扉を閉ざしている。それに手を触れ、アンディは深くうなだれた。
 「でも、それだけのはずなのに、随分と大きな違いですよね」
 低く、鈍い金属音がして、錠が開いた。
 外れた鎖が地面に落ちた。それは、一瞬石畳の上で跳ね、次の瞬間には二匹の蛇となってするするとどこかへ逃げて行った。
 「これは…」
 シャウラの問いに、アンディが答える。
 「僕がやったことです」
 そして彼は、長くゆったりとした司祭の上衣に手をかけた。白い布を取り去ると、そこには黒くぴったりとした服に身を包んだ青年がいた。
 「本当の僕は、邪神に仕える司教で――ここの支部の長」
 笑顔は、苦笑に変わった。あらわになった左の上腕に、禍々しい紋章が彫られていた。
 「そして、僕がこの街の領主、アンドリュー・クレイトンです」
 イルクラチアへようこそ、と彼は言った。

 館の中は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
 「カーチス様!大変です!」
 「何事だ、うるさいぞッ!!」
 豪奢な部屋の中央で領主の椅子に座り、上納金の明細をチェックしていた男は、不機嫌そうに顔を上げた。
 「お前らはまたそうやって…」
 「本当です、大変なんです!」
 黒服の神官たちが、息せき切って床に膝をつく。
 「クレイトン司教がお戻りになったんです!」
 「な…何ィ!?」
 驚きの表情を隠そうともせず、明細を放り出して彼は立ち上がった。
 「バカな事を言うな!アンドリュー・クレイトンは、死んだはずだ」
 「いえ、それが」
 一人が恐る恐るといった様子で、窓の外を指差した。
 「ちゃんと、表の正門の扉を開いてお戻りで」
 「な……ッ」
 暗黒司祭ヴァルマン・カーチスは、そのまま凍りついたように立ち尽くした。
 正門を閉ざしている錠は、高位の暗黒司祭でなければ作り出せない強力な魔法の錠だった。生きている蛇を呪いによって鎖と化すため、鍵はない。錠をかけた当人か、それよりも強い魔力を持つ術者でなければ解除出来ないのである。
 屈辱的なことに、現領主の地位にあってもカーチスには錠を外すことが出来ず、したがって館の出入りはすべて通用門から行っていた。
 「そんな、バカな」
 のろのろと歩いて窓に近寄り、窓から外をのぞく。広々とした庭の先に見える門扉は、確かに大きく開け放たれていた。
 「一体、誰が…」
 司教は確かに自分が殺したはずなのに。この手で、殺したはずだったのに。
 「まさか、本当に」
 「お酒に薬を入れて眠らせ、首を絞める…悪くないやり方でしたが」
 カーチスの背後から穏やかな声がかけられた。
 「とどめを刺さないうちに、川に捨てたのは失敗でしたね、カーチス司祭」
 「……クレイトン…司教」
 振り返ると、笑顔を浮かべた青年が立っていた。
 カーチスより7つも若く、美しく、あらゆる能力に秀でた上に、冷静さと非常さを兼ね備えた闇の司教、アンドリュー・クレイトン。二年前とまるで変わらない彼が、そこにいた。変わったことといえば、少し背が伸びた事ぐらいだろうか。
 「二年間、留守番ご苦労さまでした」
 口元は笑っているが、目は笑っていない。顔に貼りついた笑顔を崩さないまま、アンドリューは事務的な口調で言った。
 「僕を殺してくれたお礼として、すぐにでも処刑を、と言いたいところですが」
 ゆっくりと部屋を横切り、カーチスの目の前に立つ。
 「あの件に関しては僕にも落ち度がありましたからね」
 二年間もこの街の領主を務めたというのに、感情の見えない緑色の瞳にのぞきこまれ、男は何も言えなくなっていた。縛り付けられたように体を強張らせ、立っているのが精一杯だった。
 「それに、あなたが僕を旅行に出してくれたおかげで、色々と得るものがありました」
 そこまで言って、アンドリューは、カーチスにくるりと背中を向けた。全くもって、無防備に。
 しかし、何も出来ないまま、司祭はアンドリューの視線を追って、ドアの方を見ることしか出来なかった。部屋に居合わせた他の神官たちも、みな一様に同じ方向を見た。
 そこには、長い金髪をなびかせた青年が立っていた。
 「あなたたちにも紹介しましょう。先に亡くなられた魔人将軍ウェグラー様のご子息、シャウラ・ルディン・ターク様です」
 ざわめきが起こる。
 それもそのはず、魔王を神と崇める者たちにとって、魔人将軍の存在もまた、それに等しい。だが、その息子が父を討ったという話も、もちろん彼らの耳に入っていた。
 「ま、待て、司教」
 ようやく我に返ったのか、カーチスが乾いた声を出した。
 「おま…いや、あなたは、今、シャウラ様と言われたな?」
 「ええ。それが何か?」
 「噂によると、ご子息はウェグラー様を裏切ったと聞いたが…」
 すると、アンドリューはにっこりと微笑んだ。
 「噂、ですね」
 シャウラの目の前で、彼はきっぱりと言い切った。
 「一行の中に、ガルダンの王子ウィーダがいましたから、敵討ちの美談が広まっているようですが、それはあちらの事情」
 そして、アンドリューはまた冷たい目をして続けた。
 「シャウラ様はお強い。強い者が、新しい魔人将軍になる。ただ、それだけの事です」
 闇の世界では、至極当然のこと。言外にそう言って、司教はシャウラの傍へと戻ってゆく。かすかに眉を寄せ、固く唇を結んだ友人のもとへ。
 「あなたのおかげで、僕はシャウラ様にめぐり会えました。感謝、していますよ」
 背中越しに言い残して、アンドリューとシャウラは部屋を出た。さっきまでカーチスの周りに群れていた者たちは、あわてて二人の後を追っていく。
 たった一人残されて、カーチスはがっくりと膝を折った。


続く

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