第四章 夢の街イルクラチア(後編)
「お願いがあります」
館の中へ入る直前、アンディはシャウラに告げていた。
「これから僕が言う事は、何一つ、信じないで下さい」
「何故だ?」
「これからお見せするのは…僕じゃありませんから」
その言葉を思い出しながら、シャウラは窓の外を眺めていた。
太陽は沈んだ。濃紺の夜空とは対照的に、街の明かりは余計に明るく、眩しく輝きを増していた。豪華な装飾を施された客間の中も、同じように多くのランプで照らされている。
ふと、風もないのに長い髪が揺れた。
「……シャウラ様」
困ったような顔をして現れたのは、小さな妖精だった。いつの間にかついて来ていたらしく、窓枠にそっと降り立った。浮かない様子のシャウラを見上げて、彼女も暗い顔になる。
「…チャリクか?」
「チェリコです、シャウラ様」
一番大人しい性格の末の妹は、しゅんと肩を落とす。綿毛のようなふわふわのピンクの頭をそっとなで、シャウラは謝った。
「すまない。私には、どうにもお前たちの見分けがつかない」
「いえ、別にその事はいいんですけど」
歯切れが悪そうに言って、チェリコは窓ガラスに両手をついた。
「怖いです…この街」
「そうだろうな」
そう言えば、彼女たちは森でアンディに会った時も随分と怖がっていた。空気の気配にすら敏感な生き物だから、彼にも何か感じるところがあったのだろうか。シャウラは疑問を覚え、尋ねてみた。
「一つ教えてくれ、チェリコ」
小さな体を窓にくっつけて、往来を行き来する人の波をじっと見つめているチェリコ。その透き通った羽が、ぶるっと震えて振り返る。
「はい。何でしょう?」
「何故あの時、お前たちはアンディを怖がった?」
「アンディ……あの、銀色の髪の人?」
シャウラがうなずくと、彼女の小さな羽がうなだれるように下を向いた。
「あの人…泣いてました。あの時」
とても悲しそうに妖精は顔を伏せ、自分の胸に両手を重ねる。
「顔は笑ってたけど、なんだか…なんだか、血がいっぱい出ていました。ここに」
彼の心に。
「あんなに心が血まみれになってて、あの人、大丈夫なのでしょうか?」
実際に見えたわけではない。しかし、その時の様子を思い出してしまったのか、チェリコはふるふると頭を振って嫌がった。
「あたし…怖い。怖いです、シャウラ様」
「分かった、もういい」
すっかり怯えてしまった彼女をなでてやる。妖精はほっとしたように表情を緩めたが、それはまたすぐ強張ってしまった。
「どうした?」
「あの人が、来る」
言うなり、チェリコはシャウラの首元に飛びついてきた。そのまま首の後ろ、髪の毛の中へ潜り込んで姿を隠す。それとほぼ同時に、扉をノックする音が響いた。
「シャウラ」
ごく控え目な、小さい声。それに応えて、シャウラは尋ねた。
「アンディか?」
「……はい。入りますね」
それからわずかな間があって、静かにドアが開いた。
うつむき加減で入ってきたアンディは、ゆったりとした黒いガウンを羽織り、仰々しい飾りをつけていた。どことなく疲れたような表情で後ろ手にドアを閉め、ようやくシャウラの顔を見る。
「遅くなってすみません。色々、あったものですから」
「ああ」
シャウラは鷹揚に返事をした。
「今、クプシちゃんの行方を調べさせています」
「ああ」
「どうして」
ふいに、アンディの声が低くなった。
「僕を怒らないんですか?」
見ると、彼は両方の拳を握りしめ、シャウラの方をにらむ様に見つめていた。
「私が、怒る?」
「ええ」
驚いたように聞き返すシャウラから顔を背け、暗黒司祭は絞り出すように言った。
「僕はあなたの事を魔人だと言ったんですよ?」
苦しげに、一言ずつ言葉を吐き出す。
「ここの人間を使うために、あなたの事を利用した…騙したんです。目的のために」
「ああ、そうか」
「ああ、そうかって」
拍子抜けしたように、アンディはシャウラの言葉を繰り返した。シャウラは悠然とソファに座って足を組み、それに答える。
「だが、それを信じるなと言ったのはお前だろう?だから、信じなかった」
たった、それだけ。当然のことのように彼は言ってのけた。
間違いなく、シャウラよりもアンディの方が、はるかに深く傷ついてしまっているのだろう。相変わらず妖精が怯えて姿を見せないのが、何よりも明らかな証拠となる。
魔人の公子は首を振った。
「それよりも、何か分かったのか?」
「あ…はい」
尋ねられて、あわててアンディが顔を上げた。
「それが、行方不明になったとされていたバスラムの親衛隊の一人らしい男が、ここの地下に囚われているらしいんです」
「何?」
それなら、話は簡単ではないか。
そう言いたげな顔つきのシャウラに頭を振って、アンディはすまなそうに言った。
「錯乱しているそうなんです」
「錯乱…?」
「何か恐ろしい物を見て、気が触れたらしいんです。うわ言を繰り返すばかりで、話にはならないそうですが…一緒に、会いに行ってみますか?」
「ああ。何かの手がかりになるかも知れない」
うなずいて、シャウラは立ち上がった。
うへへへぇ、とだらしのない笑い声が地下牢に響く。
「時々暴れますから、お気をつけて」
「ええ、ありがとう」
牢番から鍵を手渡され、アンディは独房の扉を開いた。そう広くない小部屋の奥に、その男は繋がれていた。鎖を鳴らして、開きっ放しの口から涎をこぼす。
「あなたは…マルティン!」
変わり果てた姿ではあったが、彼は確かにバスラムの人間だった。アンディは囚人の顔をのぞき込み、名前を呼んだ。
「マルティン!僕です、僕が分かりますか?」
「うぅ…ああっ!?」
だが、返事はわめき声にしかならなかった。伸ばされた手に噛みつこうとしたため、とっさにシャウラがアンディを引く。
「あーっ、ああーッ!!」
「これは…何とかなるものなのか?」
尋ねるシャウラに、アンディは表情を曇らせた。
「分かりません。出来るところまで、やってはみますが…」
心の平静を取り戻す、平穏の呪文を唱えることは出来る。だが、この錯乱状態では、その効果がどのぐらい及ぶかも予想できない上に、マルティンにはさらに質問に答えてもらわなければならないのだ。忌まわしい記憶を引き戻されて、彼がより深い狂気へと落ちていくことは、想像に難くなかった。
「生死を問わないのなら、方法はいくらでもあるんですけどね」
アンディが口元だけの笑みを浮かべた。
「どうしよう…やりましょうか?」
「それは」
「ダメッ!」
その時、シャウラの頭の後ろから、チェリコが飛び出してきた。
「それはダメッ!だって、だって」
アンディの顔の前に立ちはだかって、彼女は両手を振った。
「あなたは、人を殺しちゃダメなんです!」
「え…?」
彼女の言葉に、アンディが目を丸くする。それに構わず、チェリコは続けた。
「あんなに悲しいのに、もっと血がいっぱい出ちゃう…そんなの、可哀相」
とても小さな涙の雫をぽろぽろこぼして、妖精は泣いていた。
「血がいっぱい出るって…」
「お前の話だ」
シャウラはチェリコをなで、自分の掌にそっと乗せた。
「彼女らは、ある程度だが人の心が見える。だから、お前が自分を傷つけて、血まみれになっているのが見えるそうだ」
「僕が」
「怖いから、やめて欲しいそうだ」
遠慮のない言葉に、アンディはうつむいた。だが、すぐに顔を上げ、泣きじゃくる妖精に微笑みかけた。
「それは、本当にすみませんでした」
チェリコはぐずりながらうなずいた。司祭はそっと手を伸ばし、ピンクの髪の毛に触れてみた。一瞬だけ体を震わせた妖精は、今度は逃げ出したいのを我慢して、シャウラの手の上でじっとしていた。
「しかし…それじゃ、一体どうすればいいんでしょう?」
「あたしが、お手伝いします」
顔を覆ったまま、チェリコが答えた。
「この人も怖いけど…頑張ったら、心の中に入れるから」
「出来るのか?」
「……うん」
小さな指の隙間から、じっとアンディの顔を見上げる。
「だからお願い、平穏の魔法をかけてあげて」
荒野を進む、バスラム王女の一行。愛らしい王女に、親衛隊の仲間たち。道程は長いけれど、辛くはない。彼らの間に、笑顔は絶えない。
そう――旅は万事、順調だった。その瞬間までは。
一陣の突風が吹いた。砂が舞って、目に入った。
彼は、痛みのために目を閉じる。そして、暗闇の中で咆哮を聞いた。
痛みをこらえてまぶたを開くと、そこには――赤い魔物がいた。
どこから現れたのか、全く分からない。ただ一つ分かったのは、どこにも王女の姿が見当たらないこと。彼は迷わず剣を抜いた。
この魔物が、王女を。そうでないはずが、なかったから。
他の仲間たちも同じ思いだったはずだ。そこにいた全員が、武器を取っていたのだから。
それなのに…違った。違っていた!
魔物に剣を向けた途端、隊長の顔色が変わった。お付の忍びも。
何故、どうして。訳が分からない。
魔物をかばって、二人がみんなを殺す――俺を、殺す!!
マルティンは安らかな寝息を立てていた。アンディの魔法が効を奏しているようだった。
シャウラの掌の上では、チェリコがぐったりとうなだれている。ぐっしょりと汗に濡れ、髪の毛が額に貼りついていた。
だが、彼女のおかげで、何が起こったのかは十分に分かった。
突然クプシの姿が消え、代わりに魔物が現れたこと。その魔物を倒そうとしたら、逆に親衛隊長たちによって、彼らの方が倒されてしまったこと。マルティンは何とかその場から逃げ出せたのだろうが、おそらく他の兵たちは、生きてはいないだろう。
「二人というのが誰なのか、知っているか?」
親衛隊長と、お付の忍び。シャウラが尋ねると、アンディは首を縦に振った。
「ええ、よく知ってます…本当なら、僕も一緒に行くはずでしたから」
彼も復興中のバスラム王宮に仕える司祭として働いていた。あの時、旅立ちの前日になって、アンディは急な高熱に見舞われ、王女の供を断念せざるを得なくなったのだ。
「親衛隊長は、アシル・クロードウィン」
彼は、よく知った名前を口にした。半年前の旅を共にした、クプシの幼馴染でもある少年。
「そして、忍びは…ランディのことです」
ランディもまた、同じ旅の仲間だった。はるか東方の国から来た、異国の青年。確か、本名は覚えられないほど複雑で長ったらしい名前だった。
「忍びというのは何だ?」
「東国の特殊な技術のことをそう言うらしいです。色々見せてもらいましたが、あれは変わっています」
何の手がかりもない石壁をするすると登って見せたり、天井を這って見せたり。魔法ではなく、かといって盗賊の技とも違っている。その能力を買われて、親衛隊と並んで王女の護衛を任されていたのだ。
「一番驚いたのは、捕まえたと思ったら、いつの間にか手に持っているはずの腕が木の枝や人形に変わってるんです。それで、本人は離れたところからひょっこり現れる、というやつです。それも、魔法を使わずに」
「そんな事が出来るのか」
珍しく、感心したように首を傾けるシャウラに、アンディは言った。
「ええ、でも…でも、ランディは」
また、表情が苦しげに歪む。
「その技は、決して悪事には使用しないと……だから、彼が、親衛隊を手にかけたなんて…嘘です!」
「分かっている。落ち着け」
唇を食いちぎりかねない程の強い言葉に、シャウラは友人の背中を叩いた。
「アシルもランディも、理由もなくそんな事はしない。もしマルティンが見たものが事実だとすれば、何か理由が…」
そこでふと、何かを思い出したかのように口を閉ざす。ゆっくりと考えを巡らせて、彼はつぶやいた。
「赤い魔物…」
チェリコが伝えてくれたイメージは、燃える炎のような、赤い魔物。
「まさか」
「どうしました?」
「いや…まさかとは思うが、もしも、クプシが」
だが、シャウラの言葉はそこで遮られた。
「失礼致します!」
騒々しい足音と共に数人の暗黒司祭たちが現れて、アンディの足元に深々と頭を垂れる。そして、床に額をこすりつけるようにして報告した。
「失礼ながら申し上げます。シャウラ公子様に、お客様がいらっしゃいました」
「私に?」
二人は顔を見合わせた。暗黒司教アンドリューの帰還は突然で、ましてや魔人の公子と連れ立ってなどという話は、まだ他の支部にも伝わってはいないはずだ。つまらないご機嫌伺いなどでない事は、明らかだった。
「そのお客人とは、一体どなたですか?」
「はい…それが」
頭を下げたまま、彼らは互いの顔を見合わせ、そして一人が顔を上げた。
「ガルダン第一王子にして、次期国王…ウィーダ・デル・ガルダン・オルト様と、そのご一行でございます」
「ウィーダが」
その名を繰り返すシャウラに、アンディがうなずいた。
「ガルダンでも…何かあったのかもしれませんね」
それも、彼らと同じように、良くない事が。
「失礼のないように、丁重におもてなしをなさい。僕たちもすぐに行きますから」
「はっ!」
また慌しく去って行く部下たちの背中を見送って、二人はそれぞれの重い足を上げた。