間章 悪夢の途中
そう――旅は万事、順調だった。その瞬間までは。
一陣の突風が吹いた。砂が舞って、目に入った。
俺は、痛みのために目を閉じる。そして、暗闇の中で咆哮を聞いた。
痛みをこらえてまぶたを開くと、そこには――赤い魔物がいた。
どこから現れたのか…俺は知っていた。どこにも王女の姿が見当たらないこと。それこそが何よりの証拠だった。
この魔物こそが、王女。そうでないはずが、なかったから。
他の仲間たちには分からなかったはずだ。そこにいた全員が、武器を取っていたのだから。
それだから…そうするしか、なかった。
魔物に剣を向けた途端、体が動いていた。
何故、どうして。訳が分からない。そんな顔ばかりだった。
魔物をかばって、俺たちがみんなを殺す――信頼してくれている、部下を、殺す!!
飛び起きた彼は、全身ぐっしょりと汗にまみれていた。何度見ても嫌な夢だった。だが、これから何度でも、眠るたびに同じ夢を見るのだろう。覚悟していた事とはいえ、あまりにもむごい結果に、言葉がない。
「目が、覚めたかしら?」
いつの間に開いていたの、部屋の入り口に、一人の女性が立っていた。
「……俺」
「大丈夫?また、うなされてたけど」
「ああ」
頭を押さえる彼に、彼女は盆に載せたお茶と着替えを差し出した。
「はい、どうぞ。少しは、落ち着くわよ」
「…ありがとう」
カップを受け取り、熱いお茶に口をつける。すっと鼻に抜ける爽やかな香りが、非常に心地よい。
優しい視線に見守られながら、ゆっくりと彼は最後の一口まで残さず飲み干した。確かに、少しは気分も和らいだような気がする。彼は、空になったカップを両手で包んで、言った。
「本当に、ごめん。こんなことに巻き込んで」
「今さら、何を言ってるの?」
悪戯をした子供をたしなめるかのように、彼女は笑う。
「そんな顔しないの。あの子が気にするわよ」
「……そうだな」
小さくため息をついて、彼も笑顔を浮かべた。そして、背の高い彼女の顔を見上げて尋ねた。
「まだ泣いてるか?クプシは」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「強い子ね、驚いたわ…もう、自分が何をしなければならないか、理解したみたい。魔法を教えて欲しいって言ってるわ」
「そうか」
「ただ、あなたたちがいないと、どうしても不安になってしまうみたいだけど、ね」
そう言って、彼女はカップを受け取り立ち上がった。
「ランディ君が呼んでたわ」
「!」
はっとして顔を上げる彼に、女性は柔らかい笑みを投げかける。
「大丈夫よ、落ち着いてからでいいって言ってたから。ちゃんと汗拭いて、着替えてから行くのよ?」
「あのね、ティアさん?」
「なあに?」
あくまでもにっこりと、ティアは応えた。その屈託のない顔に、彼は肩をすくめて言った。
「俺、子供じゃないんだけど」
「そんなこと気にしてるうちは子供ってことなのよ、アシル君」
長い金髪がふわりとひるがえる。そのまま出て行く後ろ姿に、アシルは頭を下げた。
自分たちが子供なのは、よく分かっている。生命の保証もしてあげられない相手に、こんなに助けられているのだから。
それならせめて、今の自分に出来ることを。
彼はベッドから降りた。ティアが用意してくれた着替えにも、優しい香りが染みこませてあった。
がらんとした、だだっ広いだけの広間。ロウソクの灯りさえ乏しい空間は、入っただけで肌寒さを感じさせるほどだ。
最近、ランディはここにいることが多かった。他に誰も座る者のない大きなテーブルの一角に座り、ただ、じっとしている。
「ランディ」
アシルが声をかけると、鋼色の髪の青年は黙ったまま顔を上げた。
「呼んだか?」
「ああ」
返事をして、二度、三度と左右に首を傾ける。何かを考えている時の癖だった。
「何があった?」
「シャウラとウィーダが合流した」
そう言って、彼はじっと赤毛の青年を見つめた。そして、感情を押し殺したような声で言った。
「行ってくれるか?」
「……俺が?」
「ああ」
真意を量るように、アシルもランディを見返す。が、彼の視線がふいに、右に振られた。
「……」
アシルの目の前に吊り下げられた、銀色の振り子。何気なく、それを目で追ってしまう。何故、そんなものが突然現れたのかを考える暇も与えられないまま、アシルは黙ってそれを見つめ始めた。
「大丈夫だ」
振り子を揺らしながら、ランディが言う。
「お前は大丈夫。ちゃんと出来る。みんなに会える――助かる」
アシルの瞳は、次第に焦点が合わなくなっていく。ただ、夢中で銀色の軌跡を追っているだけ。
「目が覚めたら、言うんだ」
「………ああ」
「これは、誰のせいだ?」
優しく、しかしはっきりと問うランディの声に、彼はうっすらと口を開いた。
「これは…」
「オレのせいだろ?」
「ランディの…」
言われるままに、繰り返す。
「クプシをさらったのは、誰だ?」
「ランディ…」
「親衛隊を皆殺しにしたのは」
「ランディ」
重たげに、アシルのまぶたが閉じた。その代わり、口調が次第にはっきりとしてくる。
「そうだ…すべては、ニンジャマスターである、ランディのせいだ」
最後にきっぱりと言い切った彼の様子にうなずき、ランディは振り子を収めて立ち上がった。
「よし、いいだろう」
手を叩いて、配下の者を呼ぶ。それは、低級の魔物たちだった。
「アシル将軍がお出になる。お前たち、お送りしろ」
「はっ!」
彼らに手を引かれるまま、アシルは歩き出した。うっすらと目は開いてはいるが、意識はないはずだ。そのまま広間を出て、消えていく背中に小さく声をかけた。
「二度と、戻って来るなよ」
ランディに出来るのは、計画が上手く行くように、祈るだけだった。