第六章 ファランキオの娘(前編)
がらんとした、冷たく広い部屋に、相変わらずランディは一人、座っていた。だが、今はその目の前に、一人の女性が立っていた。
「失敗したわね。どうしてくれるの?」
言葉の内容をそのままぶつけるように、怒りもあらわに女性は言う。ランディは腕組みをしたまま、彼女の方を見ようともしなかった。
「そりゃあ、お前も悪いんじゃねーのか?あの方法でアシルに暗示をかけられるって言ったのは、お前だぜ?」
「あんたのやり方が悪かったのよ、ニンジャマスター」
ぴしゃりと言い放って、紫色の髪の女性はランディに人差し指を突きつけた。
「とにかく、このままじゃ、全部公子にバレちゃうわよ」
「そうだな」
毒々しい紫に塗られた、鋭く尖った爪を突きつけられて、うんざりしたように彼は答える。
「じゃあ、お前が行って、ちょちょいとやっつけて来りゃあいいじゃねーか」
「勝てると思ってんの!?相手は公子だけじゃない、ウィーダ王子も一緒にいるのよ!?」
彼女が怒ると、口元から二本の長い牙がのぞいた。明らかに人間ではないその女は、ヒステリックに食ってかかった。
「あのウェグラーだって、あの二人には敵わなかったんだからね。冗談じゃないわ、あんな化け物みたいな勇者とケンカするなんて」
「化け物はお前だろ」
「何か言ったッ!?」
「いいや、別に」
そ知らぬ顔でうそぶくランディ。彼女はしばらく怒りをこらえながらじっと彼をにらんでいたが、やがて、しかめっ面のまま言った。
「まぁ済んじゃったことは仕方がないわ。次の手を考えましょ」
「ああ、そうだな」
ランディは相変わらず、うんざりしたような顔つきのままうなずいた。気のなさそうな表情では、何も考えていないことなどすぐ分かる。
ふいに、女が笑った。
「公子たちがここへ来れない様に、時間稼ぎをしなくちゃね」
楽しそうに、爪の先で自分の唇をなぞりながら言う。
「姫様の教育が、まだ終わってないものねぇ」
「……」
その言葉に、ようやくランディが顔を上げて彼女を見た。苦々しげな彼の表情に満足の笑みを浮かべ、彼女は続けた。
「今度は、ティアに行ってもらいましょう」
「彼女は、戦闘向きじゃない」
「だからいいんじゃないの」
細められた女の目は、笑顔を形作ってはいたが、決して笑ってはいなかった。
「シャウラ公子はお優しいから、ティアのような娘には手を出し辛いでしょうからねぇ…楽しみだわ」
冷淡な微笑を浮かべ、魔人の女はランディに告げる。
「ニンジャマスター。次は、あの女を出すのよ…イヤなんて、言わないわよねぇ?」
「……当り前だろう」
猫なで声にうなずいて、彼は立ち上がった。
「オレに任せろ。オレが…お前の望みどおりにしてやる」
「約束よ」
今度は、心底楽しそうに微笑んで、彼女はランディに背を向けた。耳障りな靴音を響かせながら去って行く後ろ姿には、長い尾と二対の翼が生えている。
ランディは、唇を噛みしめて、魔人が去るまでにらみ続けていた。
ファランキオというのは、シャウラの教師だった魔人の名だった。
本来は炎の精霊だったのだが、シャウラの養父、魔人将軍ウェグラーの部下として働き、炎王と呼ばれていた。しかし、魔人でありながら、武人と呼ぶに相応しい高潔な精神の持ち主で、勇者であるシャウラが真の魔人と成り果ててしまうのをよしとしなかった。そのため、何度もシャウラや、その叔母であるバスラム王国の女王マァナを救うという、魔人らしからぬ行動も見せている。
結局最後は、魔人として、ウェグラーの配下として、二人の勇者に討ち取られる道を選んで、敗れて消えていった。
そのファランキオに、娘がいるという。
「そんな風には思えなかったんだがな」
ウィーダが言うと、シャウラがうなずいて、静かに答えた。
「私も聞いたことはなかった」
「お前も知らないのか?」
驚いたように、クザンが聞き返す。すると、今度は首を横に振って、彼は答えた。
「心当たりならある」
「誰だ?」
そこにいた全員が身を乗り出した。だが、シャウラの次の言葉を遮る声があった。
「ダメだ、シャウラ…それを言っちゃあ」
振り返ると、いつの間に目を覚ましたのか、アシルがこちらを向いていた。
「何故?」
「それがバレたら、大変なことになるんだぞ?よく考えろ」
「大変なこと?」
シャウラは、彼が何のことを言っているのかよく分からないまま、わずかに首を傾げて見せた。
「分からないのか?相変わらずだな、お前は」
「すまない」
「謝らなくていい…そうじゃないかとは思ったから」
そして、アシルは顔を動かして、周りを囲んでいる顔を見回した。ウィーダにクザン、アンディというよく知った顔に、見知らぬ顔が2つ。だが、二人とも、ウィーダに仕えている騎士であり、命をかけて彼を助けてくれたのは分かっていた。
「しょうがない。このメンバーなら大丈夫そうだし…説明してやるよ、シャウラ王子」
王子、というところにアクセントを置いて、アシルは言った。
「彼女が魔人の娘だと分かったら、お前と同じ目に会うってことだよ。母親もろとも、な」
「私と…同じ」
繰り返して、シャウラはふと、何かに気が付いたように目を伏せた。
「そうか。確かに、そうだな」
「え?一体、何が何だか分からねえぞ」
クザンがあわてて周りを見回した。カリンも同じ表情だ。しかし、他の三人はアシルの言葉が意味するところを悟ったのか、深刻な顔つきに変わっていた。
「フォルド…お前までそんな顔しやがって」
「あれだけ聞けば分かるだろう」
隻眼の騎士は、少し呆れたように小さなため息をついて、まだ分かっていない二人を自分の近くへ呼び寄せた。
「シャウラ殿がバスラムの王子だと言うのは、お前たちも知っているな?」
クザンとカリンは、素直にうなずく。それを確認し、より小さな声でフォルドは続けた。
「だが、魔人として悪の限りを尽くしたため、国民には大いに嫌われている。王位に就くことは、おそらく出来ない」
二人はまた、うなずいた。
「だから、現在バスラムにはマァナ様が女王として即位し、王女としてクプシ様がいらっしゃる。父親の分からない、王女殿下がな」
「!」
さすがに、今度は彼らにも理解できたようだった。振り向くと、アシルがゆっくりうなずいた。
「いいか。絶対に、今のこと、他の誰にも言うなよ」
当然だった。
バスラムは、魔人に蹂躙された国だ。王子であるはずのシャウラ自身が魔人と化して、国民をいたぶり尽くしたという、拭うに拭えない過去がある。そこに加えて、女王の夫が魔人だと知れたら――王女の父親が、魔人だと分かったら、一体国民は何を信じて生きていけばいいというのだ。
例えその魔人が、正義と愛情を知る良い魔人であっても、何も知らない人々から見れば、おそらく何も変わらない。その先に待つのは、崩壊だけだ。
「マァナ叔母さんは…女王陛下は、何よりみんなを大事に思ってる。何とかして、民を守っていこうとしてるんだ。だから、それだけは、知られるわけにはいかないんだ」
「分かった」
ウィーダがうなずいた。
「秘密は、必ず守る」
「ありがとう……ございます、ウィーダ殿下」
「いや」
泣き顔になったアシルの頬に手を当てて、王子は微笑んだ。
「当然のことだ」
翌朝、シャウラたちの一行は、早々にイルクラチアを発った。街のことはまたカーチス司祭に任せ、アンディも旅立つ。もう、禍々しい黒い衣装は脱いでいた。
「私の予想が正しければ、目的地は、ここだ」
広げた地図の一点を指差して、シャウラは言った。
答えを明確に言う事は出来ないが、その場所を見て、アシルもうなずいた。そこは、魔術師ギルドを越えてさらに北方、険しい山並みの中腹にあった。この山脈を越えた先にあるのは、氷の荒野。
そして、そんな場所にあるものといえば、相場は決まっている。
「ここに城があって、クランスールという女が住んでいる」
シャウラは記憶をたどりながら、知っている限りの情報を口にした。
「名前はウェグラーから聞いたが、会った事は一度もない。だから、どんな顔をしているのかも分からない。ただ」
珍しく、少し言いあぐねて首を巡らせ、それから次の言葉を続ける。
「三人いる魔人将軍のうちの、一人だ」
「魔人将軍」
ウィーダが繰り返した。
「ミラノだったら、これも運命だとか、勇者の使命だとかと言うのだろうな」
「ああ、間違いない」
そして、二人は笑った。もちろん、シャウラの表情の変化はかすかなものだったが。
「まったく、お前らと一緒にいると退屈しないぜ」
「また、魔人将軍と戦うことになるなんて思いませんでしたよ」
あきれたように言うクザンに、アンディがいつもの微笑を見せる。アシルが複雑な表情を浮かべて、肩をすくめた。だが、それも恐れたり、尻込みしたりするような表情ではなかった。
前に進むしかない。事は、始まってしまったのだから。
「シャウラ様!」
その時、小さいながらも高く澄んだ声が彼らを追いかけてきた。ふわふわしたピンクの髪の毛が彼らの間をすり抜けて、シャウラめがけて真っすぐ飛んでいく。
「寝てる間に置いていくなんて、ひどいです」
「ああ、すまない」
羽を震わせてくっついてくる妖精を事も無げに受け止めて、シャウラは答えた。
「あれからずっと疲れている様だったからな。今朝もよく眠っていたから、起こすのは良くないと思った」
「チャリクだって一緒に来てるのに、一人だけ置いてかれるなんて、イヤです」
長い金髪を握り、肩に止まってチェリコは不満げに訴える。
「チャリクが来ている?」
「はい、すぐそこに」
小さな指が示した先は、ウィーダの顔だった。指差された青年は、見えていないはずなのに、何故か困ったような表情になった。
「ウィーダ?」
「黙っておくという約束だったんだ」
そう言って、彼は自分の右耳に片手を添えた。銀色の髪がゆれ、そこにもう一人の妖精が現れた。
「……すみません、シャウラ様」
まったく同じ顔をしている三姉妹の長姉は、しゅんと肩を落としてうなだれていた。
「留守番をしていろと言われたのに、あたし一人じゃ寂しくて、王子様に連れて来てもらってしまいました」
目の見えないウィーダのために危険を知らせるという役目を買って出たチャリクは、姿を消して耳元に潜み、ずっと一緒について来ていたのだ。
「チャリクは役に立ってくれている。叱らないでやってくれ」
「それは構わないが…」
ウィーダの肩に乗っているチャリクと、自分の髪の毛にしがみついているチェリコ。その二人をながめて、シャウラは言った。
「一人では寂しいと言ったな、チャリク」
「はい」
「では聞くが、チュリカはどこへ行ったのだ?」
彼の言葉に、ウィーダが首をひねる。
「私と共に来る事になった時は、彼女しかいなかったぞ」
「もう一人いるのだ。何にでも首を突っ込みたがる好奇心旺盛なのが」
「まさか」
居並ぶ全員が、小さな妖精に顔を向けた。みなの注目を一身に浴びて、チャリクは思わず体を強張らせたが、すぐに気を取り直して口を開いた。
「はい。あの…みなさんが、ランディと呼んでいる、黒い服の人について行っちゃいました」
一瞬の沈黙。そして、シャウラがアシルを見た。
「知っていたか、アシル?」
「確かに妖精はいたけど、最初からあそこにいる魔物だと思ってた。まさか、この子たちの姉妹だとは…」
言いかけて、一旦自らの手で口を塞ぐ。次に言おうとしている事を頭の中で繰り返してから、アシルは続きを言った。
「まずいぞ、シャウラ。この子たちと一緒にいるのは、はっきり言って得策じゃない」
「何だと?」
「いや…ダメだ、もうこれ以上言えない」
禁じられた事に何かが引っかかっているのか、少年は困惑した表情で視線をそらした。その横顔を、不安そうな表情になった二人の妖精がじっと見つめた。
「あたしたち…何がいけないの?」
「何か、悪い事をしましたか?」
「いや、そうじゃないんだけど」
泣き声の二重奏に、アシルは頭をかいた。重要な事を知っているのに、それを告げれないもどかしさに、視線が宙を泳ぐ。やがて、意を決したように彼は告げた。
「やっぱり一緒に行こう。その方が、いいかもしれない」
無邪気な顔が、たちまち笑顔で染まる。そんな彼女たちを見ながら、シャウラは尋ねた。
「そのうち分かるのだな?」
「ああ」
うなずいて、アシルは彼を見つめた。
「必ず分かる。だから、今は、俺を」
それ以上言わなくとも、全員が、彼の言葉にうなずいた。