双天の剣 第二幕
〜Princess of Flare〜

第六章 ファランキオの娘(後編)

 心の中に、イバラの蔓が絡みついてくる。
 棘のびっしりと生えた、細くしなやかな蔓が、何一つ逃すまいときつく締め上げてくる。その度に彼女は、声にならない悲鳴を上げ、夢を見ながら顔を歪める。
 安らぎなどない。ただ、望まない行為を、強制されるままに垂れ流す。
 錬金術の実験に使うような、大きなガラスの壜の中に浮かぶ妖精を見つめて、ランディはじっと立ち尽くしていた。クランスールの魔術によって、チュリカは囚われている。人の心を読み取ることの出来る彼女の力を利用するためだった。
 「…早く」
 彼はガラス壜をなでながらつぶやいた。
 棘だらけのイバラに囲まれた壜の傍らには、同じようにイバラで支えられた水晶球が置いてあった。ここには、チュリカの姉妹たちが見聞きしたものが、彼女の心を通して映し出される。どんなに遠く離れていようと、三人の間にある絆が彼女たちを結びつけ、余計にチュリカを痛めつけていた。
 「早く、来てくれ」
 しかし、水晶球に映るかつての仲間たちに、彼の声は届かない。
 「早く……」
 その時、静かに扉が開いた。
 「ランディ君…ここに、いたの」
 優しい声に、ランディは振り返った。後ろ手に扉を閉め、ティアはにっこりと微笑む。
 「どう?みんなの様子は」
 「ああ」
 曖昧な返事をして、彼はチュリカの前から離れた。
 床や壁面を突き破るように生えている、無数のイバラ。それらがあまり広くはない部屋の中を這いまわり、妖精の眠る壜を捕らえ、水晶球をつかんでいる。不気味だが、もう見慣れてしまった光景の中に立って、ランディはティアの方へ足を進めた。
 「どうしたんだ、こんな所へ」
 「これ」
 尋ねると、彼女は握りしめていたものをランディにかざして見せた。赤と朱色に彩られた美しい水晶の欠片には、魔方陣のような六角形の模様が浮かび上がっていた。
 「クプシちゃんの魔法が込められているんですって。わたしが望む場所へ、一瞬で運んでくれるそうなの」
 「何だって?」
 驚くランディの目の前から、それをさっと引っ込めると、ティアは少し寂しげな表情になった。
 「もう、行かなくちゃ」
 「おい、待てよ」
 彼女の行く手を遮るように、彼は立ちはだかる。シャウラたちを映す水晶球を、ティアの視界から隠すように両手を広げ、ランディはきつい口調で言った。
 「お前…それが、どういう事か分かってんだろうな?」
 「ええ」
 うなずいて、彼女は笑った。
 「戦うんだぞ、あいつらと」
 「ええ」
 「クザンもいるんだぞ」
 「…ええ」
 顔は笑っていたが、声は沈んでいた。ため息をつくランディに、彼女は静かに告げた。
 「でも、行かなくちゃ」
 「どうしても、行くつもりか?」
 ティアは黙ってうなずいた。後ろ手に、転移のクリスタルを握りしめる。何かを固く決意したような表情を見て、ランディは答えた。
 「それなら、絶対あいつらと戦うんじゃねぇぞ。助けてくれって、一言言えばそれで済む。だから、お前は戦うな」
 「でも、それじゃあランディ君が」
 「オレのことなんか、どうでもいい」
 厳しい表情のまま、念を押すように彼女に指を突きつける。
 「いいか。絶対に、死ぬんじゃねぇぞ」
 そして、くるりと背を向けて、水晶球の前を明け渡した。
 「それじゃ、とっとと行け」
 「……ランディ君」
 それ以上の言葉を拒むかのように、ランディは振り返らなかった。
 ティアは、しばらくその背中を眺めていたが、やがて意を決したように赤い水晶を握りしめた。言われた通り、水晶球に映った景色を見つめながら、胸の高さから床に向って赤い石を落とす。すると、足元で砕けた朱色の欠片が、魔方陣の形を描いた。
 きらきらと輝く細かい水晶の砂が、そのまま光の壁となって静かに空中へ立ち昇り、彼女の姿を包んだ。足元から揺らめいて、その姿はすぐに薄らいでいく。
 「あなたの方こそ――死なないで」
 最後にそう言い残して、ティアは消えた。

 夢の街を囲む外壁から一歩外に出ると、そこには一面、乾いた荒野が広がっていた。そのはるか彼方に、砂で煙る山脈の稜線が見える。
 主人を見つけて、曇り空からグリフォンが舞い降りてきた。
 「長旅になりそうですね」
 大人しい魔獣の背中に食糧などの荷物をくくりつけながら、アンディが言った。
 「この先に、人の住む場所はあるのか?」
 「ああ」
 シャウラが問うと、クザンがうなずいた。
 「もうちょっと行きゃあ魔術師ギルドの総本山があるからな。その周りに、結構デカい町が出来てるぜ」
 「よく知っているな」
 「元々、そこの出身だったからな」
 懐かしそうに目を細め、拳闘士は荒野を眺めた。
 「俺が初めてミラノに出会ったのも、この近くだったんだぜ、ウィーダ」
 「へえ…そうだったのか」
 王子はわずかに微笑を浮かべて、辺りに顔をめぐらせた。
 奴隷としてガルダン王国に捕らえられるまで、クザンは傭兵をしていた。その途中、この荒野のど真ん中で行き倒れている女性を助けた。それが、天界から追放されて堕ちてきた天使ミラノだった、という訳だ。
 「何もないのに、突然女が…」
 言いかけて、ふと、クザンの言葉が止まった。
 全員が、そちらの方を見た。ウィーダの耳元で、チャリクがささやく。
 「王子様…女の人が、います」
 「女の人?」
 「さっきまでは、いなかったのに」
 そう、さっきまでは、そこには何もなかった。赤土だけが広がっていたはずの荒野に、まるで唐突に、彼女は立っていた。
 淡い金色の髪が風に揺れた。
 「ティア」
 夢でも見ているかのような呆然とした顔で、クザンが言った。
 それは、ウィーダの即位式典の朝にさらわれた女性の名前だった。そして、愛しい想い人の名でもあった。
 「ティア…なんだな?無事だったんだな!?」
 彼女の方へ、一歩踏み出す。
 その瞬間、無表情だった彼女の顔色が変わった。
 「来ないで!」
 厳しい表情で言い放ち、左右の手の平を広げてクザンに向けた。
 「……これ以上、この先へは行かないで」
 「ティア?」
 「お願い。これ以上進むと言うのなら…わたしは」
 意を決したように、一度言葉を切って息を飲む。そして、再び顔を上げたティアは、冷たい表情をしていた。
 「あなたたちを、殺す」

 小さな突風は、その内に見えない刃を潜ませていた。ティアが手を振り巻き起こした風は、鋭利な刃物と化してクザンを襲った。
 頬に、うっすらと赤い線が走った。
 「どういうことだ、ティア!?」
 「わたしは」
 油断なく両手を広げたまま、彼女は答える。
 「クランスール様の忠実な部下。大切な計画を実行するためには、あなたたちが邪魔なの…悪いんだけど」
 「何言ってやがるんだか」
 手の甲で血を拭い、クザンは吐き捨てた。
 「どうせお前も操られてるんだろう。待ってな、今助けてやる」
 そのまま、迷う事なくずかずかと歩き出す。それを見て、ティアは脅えるように一歩後退した。
 「や…やめて、来ないで!」
 嫌がるように突き出した両手から突風が吹いて、わずかに彼を押し戻した。クザンは、驚いた表情で立ち止まった。
 「…ティア?」
 何かおかしい。
 そう思った彼の直感を裏付けるかのように、後ろに立っていたアンディが告げた。
 「クザン、気を付けてください!」
 「アンディ」
 「彼女は正気です。誰にも操られてなんかいません」
 魔法の影響も、暗示の気配も感じられない。彼らに対して攻撃を加えたくない、しかし、何かに後押しされるように立ち尽くし、行く手を阻もうとするティアには、操られている人間にはないはずの、迷いの表情が見え隠れしていた。
 「それじゃ一体、どうしろってんだよ?」
 クザンが、誰に聞くでもなく言った。
 「何がどうなってんだよ!?」
 そして、再び彼女へと向って歩き出す。
 「こ…来ないで」
 今度は、空気を巻き込んで、小さな旋風が生まれた。無数の風の刃が、クザンをかすめた。頬だけではなく服を裂き、腕に、胸に、足に次々と赤い線が増えていく。
 「やめて!お願いだから、クザン!」
 今にも泣きそうな顔で、それでも攻撃の手を休めることなく、ティアは哀願した。
 だが、クザンは一歩も退こうとはしなかった。大柄な彼は、ほんの数歩でティアの目の前までたどり着き、迷わずその細い手首をつかんだ。
 風が、止む。
 「おい、ティア。お前に何が起こったんだ?クプシはどうした?ランディは、一体何をやってるんだ!?」
 うろたえる彼女に、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛ける。ティアは、彼を見上げたまま、凍りついたように動かなくなった。
 重苦しい沈黙。やがて、その沈黙に耐えかねるかのように、小さな声が上がった。
 「…助けて」
 それは、か細い妖精の声だった。
 「助けて欲しいって言ってます、その人」
 シャウラの肩の上から、チェリコが言った。人の心を読むには精神力を消耗してしまうが、それでも、小さな胸に手を当てて、妖精は答えを見つけ出そうとしていた。
 だが、その姿を見つけて、ティアの顔はみるみる青ざめていった。
 「やめて」
 クザンに掴まれた腕を振り解いて、走り出す。
 「いけない、やめて!」
 「ティア!?」
 「わたしは助けて欲しいなんて思ってない!」
 シャウラの目の前で立ち止まり、ティアはチェリコに向って訴えかけた。
 「ちゃんとやるから…大丈夫だから」
 「!?」
 全員が、一斉に妖精を見つめた。彼女を肩に乗せたシャウラが横目で見ると、チェリコは驚いたように丸い目を見開き、ティアを見つめ返していた。
 「どういう事だ」
 目を細めて、シャウラが問う。魔人のそれにも似た、冷徹な瞳がまっすぐにティアを捕らえた。思わず後退りした彼女は、クザンの胸板に背中をぶつけて、止まった。
 「一体、誰に向って話をしている?」
 「そ…それは」
 「チュリカがお前たちの元にいる事は知っている」
 ティアが口ごもると、シャウラは淡々とした声で、静かに言った。
 「そして彼女たちには、人の心を読む能力がある。その力を魔力で増幅してやれば、多少の距離が離れていようとも、効果を及ぼすことは出来るだろう」
 「それでは、私たちの行動は、全て監視されていたということなのか?」
 「ああ、おそらく」
 ウィーダの問いにうなずいて、シャウラは答えた。
 「距離がある分、知らない人間の心を読むのは困難だ。したがって、よく知っているチャリクやチェリコの心を読んでいるのだろう…今でもな」
 ティアは答える代わりに、視線をそらし、顔を背けた。しかし、唇を噛んで表情を殺すその仕草が、シャウラの言葉が正解であると如実に物語っていた。
 「今、この話を聞いているのはランディか?それとも、クランスールか」
 その時、今までずっと黙って話を聞いていたアシルが、ふいに顔を上げた。
 さっきまでは引きずっていたはずの、重く巨大な戦斧を、片手でゆっくりと持ち上げる。
 「アシルさん…?」
 異変に気がついて、カリンが声をかけた時にはもう遅かった。左手でシャウラを突き飛ばし、右手で斧を振り上げる。その先にいるのは、ティア。
 「まさか、また暗示が…!」
 アンディが急いで魔法をかける。
 だが、効かなかった。
 アシルは妙に楽しそうな笑顔を浮かべて、斧を振り下ろした。

 ティアの首筋から胸にかけて、鮮やかな赤い色が広がっていく。
 返り血を浴びて、笑って立つアシルも、クザンの強烈な鉄拳を受けて沈んでいった。
 「…どうして」
 水晶球の前で、ランディは立ち尽くしていた。
 その一方で、クランスールは実に楽しそうな笑い声を上げていた。
 「いいわね!面白いわ、最高よ!」
 ガラス壜の中の妖精が、あまりにも凄惨な状況を見せつけられて苦悶の表情を浮かべる。水晶球の中の景色が、彼女の心を表すかのように歪み、乱れて次第に見えなくなっていく。
 「チュリカ!おい、チュリカ、しっかりしてくれ!」
 無理な注文だとは分かっていたが、ランディは壜を叩いて叫ぶ事しか出来なかった。ティアが、アシルが、そしてシャウラたちがどうなったのかを、なんとしてでも見届けたかった。
 だから彼は、この部屋にもう一人の人物が入って来たことに気付かなかった。
 「…ランディお兄ちゃん」
 小さな声に振り向くと、茶色の瞳を大きく見開いた少女が立っていた。
 「クプシ」
 「それは何?」
 まっすぐに水晶球を見つめて、彼女は問う。
 「ティアお姉ちゃん…死んだの?」
 「い、いや、これは」
 「アシルが殺したの?どうして?」
 赤く滲む、歪んだ景色。それを見つめるクプシの、茶色の巻き毛が揺れた。根元から、その色がみるみる変わっていく。白い肌も、灼熱の朱色に染まる。
 「あたしのせい?また、あたしのせいなの!?」
 そう言ってランディを見下ろしているのは、先ほどまでそこにいた、小柄な少女ではなかった。
 火の色の肌に、赤く燃える髪を持つ、炎の魔人。
 「ねぇ、答えて…ランディお兄ちゃん!」
 彼女は叫んだ。救いを求めるように両腕を伸ばして、ランディの肩をつかむ。
 じゅうっ、という低い音と、肉の焦げる嫌な臭いが辺りに漂った。
 「違う…ッ!」
 だが、その腕を振り払おうともせずに、ランディは応えた。
 「お前のせいじゃない!お前は何も悪くないッ!!」
 視界の片隅で、魔人将軍がにやにや笑っているのを見ながら、彼はクプシに応え続けた。
 「大丈夫だ…俺が、必ず守ってやるから」
 何とか…するから。


続く

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