第八章 戻れぬ旅路(前編)
「これは一体、どういうことなのッ!」
クランスールはいら立っていた。
ロウソクだけに照らされた、薄暗く肌寒い広間。その壁に張りつけられたモノを見上げて、魔人は大声を上げた。
「あたしの言う事が、聞けないっていうの!?」
濃い紫色の蔦に絡め取られ、張りつけられて、少女は目を閉じている。両腕を広げ、まるで十字架にかけられた罪人のようにうなだれている彼女には、答えようがなかった。意識はすでに闇の中に落ちていた。
しかし、その心の中に棘だらけのイバラの蔦を這わせ、クランスールは探す。
クプシの心のもっと奥深くへ入り込むための扉を。
「う…うぅん……」
触れられるたび、クプシは苦しげに顔をしかめる。心の扉には、幾重にも鍵がかけられていた。
その鍵の名は、信頼という。
あの時、知らない誰かに突然心を鷲掴みにされて、クプシは脅えた。
理性では押さえきれない衝動が、心の奥底から湧き上がる。どうしようも出来ないまま、彼女は自分の肉体が変化していくのを見ていた。あふれる魔力、みなぎる力、人ではなくなっていく自分自身の姿。
そして、何よりも恐ろしかったのは、そんな自分を守るために血まみれになってしまった二人を見ることだった。
「お前は、バスラムの人にとって、絶対にいなくちゃならない人間なんだ。だから、負けるな」
それなのに、何度も何度もそう言って、アシルもランディも彼女を支えてくれる。無理矢理に連れてこられたティアさえも、彼女を気遣って優しくしてくれた。
「必ず、シャウラやウィーダがオレたちを助けに来てくれる。その時まででいい、あと少しだけ、我慢してくれ」
そのために、彼らが何をしてくれたか、彼女は知っている。
魔人将軍の機嫌を損ねないように、どんな仕打ちにも耐えてくれた。罪さえも、犯した。友人を裏切るような真似さえして、ひたすら彼女を守ってくれた。
だから、あたしは応えなくちゃ。
何があっても、もう二度と、クランスールに心を明け渡してはいけない。強く、強くならなければいけない。
イバラの棘に心を撫でられながら、クプシはじっと我慢する。
絶対に――魔王なんか、呼ばない。
草も木も枯れ果てた、岩だらけの山の中腹に、魔人将軍クランスールの居城はひっそりと立っていた。
魔物どころか、生き物の気配すらない。ただ時折、思い出したように突風が吹いて、乾いた砂や小石を巻き上げる。
そんな崖道は、多少崩れやすくはあったが、歩くのは容易だった。たった一匹の魔物とも出くわす事なく、一行は城門の前に立った。
そう大きくはない黒い城はやや砂をかぶり、灰色にくすんでいた。同じように砂をかぶった扉は堅く閉ざされ、まるで何十年も昔に打ち捨てられた場所のように見えた。
「おい、どうするよ、コレ」
砂だらけの扉を叩いて、クザンが言った。
鉄製の扉には鍵がかかっていた。頑丈そうな扉には、中央に地味な鍵穴が一つあるだけで、周りには高い城壁が巡らされている。だが、城壁に沿って数歩も歩けば、もうそこは崖っぷちだった。入り口は他になかった。
「どう見ても、鍵が必要だな」
鍵穴をのぞきこんで、フォルドが答える。
「しかし、どうやって手に入れるか…」
「ココにあるぜぇ」
ふいに、頭上から軽い口調が降ってきた。
見上げると、城壁の上に黒い布をはためかせた人影が見えた。
「ラ…ランディ!」
「意外と、お早いお着きだったな」
楽しそうな声を上げて、そこから飛び降りる。かなりの高さがあったが、ニンジャマスターは軽い身のこなしで楽々と地面に降り立った。
黒づくめの覆面をわずかにずらし、彼はにっと笑った。
「よく来た」
感情の見えない表情と言葉だった。どこか固さの残る、嘘くさい笑顔のまま、ランディは古びた鍵を取り出して見せた。
「コレはごほうび…と言いたいところだが、まだ、中に入ってもらっちゃ困るんでね」
黒装束の喉元から、自分の服の中へと鍵を落とす。そして彼は、腰にさしていた刀を抜いた。
「鍵が欲しけりゃ、オレを倒してからにしてもらおうか」
「ランディ」
その時、みなを制してウィーダが一歩、進み出た。
「わたしは、お前を殺すつもりはない。鍵を渡してくれ」
「へっ」
真剣な眼差しの彼をバカにするかのように鼻で笑い、刀の切っ先を突きつける。
「オレが死ななきゃミラノは目を覚まさねえぜ?ちゃんと教えてやったのに分かんねぇとは、王子様はお人好しだな」
「そうではない!わたし達は」
「どうあっても…他に方法はねぇ」
言いかけたウィーダの言葉を遮って、ふと、ランディは寂しそうにつぶやいた。
「どんなに頑張っても、クランスールを倒したとしても、オレが生きてる限り、二度とミラノは起きねぇんだよ」
苦い口調に後悔がにじみ出ていた。
そう、彼は知らなかった。よもや、解呪が自らの生命と引換えだとは、知らなかったのだ。
だから、事実を知った時に、彼は覚悟を決めた。
「どうした、ウィーダ?来ねぇんなら、こっちから行くぜ!」
「待て、ランディ!」
制止の声も耳に入らない振りをして、ランディは刀を振るった。銀色の刃が風を裂き、薄くウィーダの頬を切った。
「殿下ッ!」
フォルドが、カリンが飛び出してくる。微動だにしなかったウィーダに抱きついて、カリンが悲鳴を上げた。
「殿下!どうか、どうかお下がりください!!」
「邪魔するな、お前たち!」
「いえ」
一歩も退かないウィーダとランディの間に立ちはだかって、フォルドは静かに告げた。
「今回だけは、殿下の命令に背きます。私が、彼を殺す」
「フォルド!」
「それが、殿下とミラノ様のため…ここにいる、すべての者のためです」
そして、自分の背後にいる者たちを牽制するかのように、肩越しに後ろを見ながら、ゆっくりと剣を抜いた。
この中では、自分が一番ランディのことを知らない。だから、冷徹にもなれる。全力で戦える。
「シャウラ殿も、手出しは無用ですよ」
それなのに、大剣は、ずっしりと手に重かった。
騎士が長剣を振りかぶる。その眼前で、どこか観念したかのような、静かな表情で待ち受けているニンジャマスター。
彼は――ランディは、避けないかもしれない。
そう思った瞬間、アンディは飛び出していた。左手一本でフォルドの長剣を受け止めていた。
「司祭殿…ッ?」
金属と金属がぶつかりあう鈍い音に、フォルドは驚いて剣を引いた。
「手出しは無用と言っただろう?」
「……やっぱり駄目です」
破れた左の袖を引きちぎると、鋼の篭手を付けた腕が露出した。その篭手から、アンディは鉤爪状の武器を引き出した。
「黙って見てるだけなんて、僕には出来ません」
右腕にも同じように、凶々しい形の鉤爪を付ける。白い衣を着てはいるが、その姿は間違いなく、暗殺を生業とする暗黒司祭のそれだった。
「すみませんが、僕にやらせて下さい」
アンディの顔に、微笑みはなかった。
そして、言うが早いか、何のためらいもなくランディに向かって鉤爪を振るった。
「…ッ!」
身にまとう殺気は常人のものではなかった。
ランディは本能的に体をよじって攻撃を避けたが、かすめた爪の先に黒い布の端切れがひっかかっる。風に乗せてそれを捨て、アンディは冷たく言った。
「死にたいんでしょう?それなら、僕が殺してあげます」
そして、微笑む。
「でも、楽には死なせてあげませんよ――たっぷりと、いたぶってあげます」
苦しい。
息が出来ない時にも似た、目の前が暗くなる苦しさ。何も考えられなくて、ただ苦しい。
クプシは夢中で手を伸ばす。でも、その手でつかめるのはただ、棘の生えた蔦だけ。もがけばもがくほど、両手は血まみれになっていくような気がする。
「助けを呼ぶのよ」
どこかで、そんな声がする。
でも、どうやって?
「お前が望めばいいのよ」
甘く優しく誘う、誰かの声。霞のかかったような頭の中で、彼女は必死で考える。
あたしが望む――何を?誰を?
「この世で一番強い者」
その名前はね…、と甘い声がささやく。
「ほら、呼んでごらん。お前が呼べば、きっと来てくれるはずよ」
虚ろな心でクプシはうなずいた。辛うじて動く唇で、召喚の言葉を口にする。
お願い、助けて…そばに来て。
どこかで、誰かの高笑いが聞こえる。
暗殺者の鉤爪が一閃した。
びりびりと嫌な音を立てて、黒い布地が引き裂かれていく。その合間に、赤い飛沫が散った。
「お前……ッ!」
ランディがしりもちをつきながら、叫んだ。
「何しやがるッ!!」
答えはない。だが、アンディが高々と掲げた爪の先には、間違いなく、古びた扉の鍵が引っかかっていた。
その一方で、いたぶる、と言ったアンディの言葉通り、ランディの服はあちこちが引き裂かれていた。だが、何本も赤い筋が描かれてはいても、どれも致命傷には至ってはいなかった。
「やっと…渡してくれましたね」
渡した、というより、服ごと奪い取ったという方が正しいのだが、確かに自分の手の中にある鍵を見つめて、暗殺者はにっこりと微笑んだ。
「必ず助けると言ったでしょう?」
そう言って、うずくまったまま睨みつけるランディに背を向ける。様々な表情で待ち受けていた仲間たちにいつも通りの顔を見せて、アンディは鍵を差し出した。
「さあ、早く中へ入りましょう」
「……ああ」
シャウラが進み出て、鍵を受け取る。そして、まっすぐに扉を目指して歩き出した。
「お前ら…それで、いいのか!?」
腹を押さえたまま、ランディが叫んだ。
「これじゃ、ミラノは」
「構わない」
彼のそばを通り過ぎながら、ウィーダが答えた。
「ミラノの事なら、何か別の方法が見つかるかもしれない」
天使なのだから、老いることも死ぬこともない。時間はかかっても、いつか取り戻す事は出来るだろう。
「だが…お前は、死んだらそれで終わりだ」
「………」
鍵が、慎重に鍵穴に差し込まれる。シャウラの手でゆっくりと鍵が回され、ロックが解除される。クザンとフォルドが、左右からゆっくりと扉を押し開く。
「さあ、傷口を見せてください」
鉤爪を外して、アンディがひざまずいた。
「手荒な真似をしてすみませんでしたが、ああでもしないと、引き下がってくれなかったでしょう?」
「……バカ野郎」
ランディは、傷口を押さえていた手を離してうなだれた。
「バカはお互い様です」
優しい手が、そっと傷だらけの体に触れる。さっきまでの冷酷な暗黒司祭の面影はどこにもなく、ただ温かい力が流れ込んでくる。傷は、みるみる癒されていった。
「行くぞ」
大きく開かれた扉の前で、シャウラが二人を振り返り、待っていた。ランディはぷいっとそっぽを向いたが、それでも、わずかの沈黙の後、アンディに続いて歩き出した。
だが、彼は、再び仲間たちのもとへ戻ることは出来なかった。
突然、足元に朱色の魔方陣が浮かび上がる。きらきらと輝く光の粒子が、彼を足元から消し始める。
「ラ…ランディ!?」
「心配ねぇ、これは召喚だ」
抗いようのない強力な魔力に包まれながら、ランディは答えた。
「クプシがオレを呼んでるんだ――先に行って、待ってる」
ほんの数瞬で、彼の姿は魔方陣と共に完全に消え去った。何一つ残さず、跡形もなく。
「急いで、シャウラ様」
ふいに妖精が言った。
「悪い予感がします。早く、あの人に追いつきましょ」
「そうだな」
シャウラはうなずいて、人気のない城内へと駆け出していった。
クプシが召喚した相手をにらみつけ、クランスールは怒りの形相を見せつけた。
「…何故、お前が」
「知らねぇよ」
魔人将軍は、少女の心に取り入って、何度も何度も魔王を召喚するように呼びかけ続けたはずだ。それなのに、何故、ニンジャマスターが召喚されるというのだ。
「……お兄ちゃん」
意識を失っていたはずのクプシは、うっすらとまぶたを開いていた。目の前にランディの姿を見つけて、かすかに微笑む。
「ま、そういうこった」
勝ち誇ったように笑って、ランディはクランスールに向き直った。
「テメェがどんなに頑張っても、クプシの心は支配出来ねぇってコトだよ」
「おのれ…!」
「やる気か?」
怒りの色を濃くする魔人に、ニンジャマスターは刀を抜いた。
「あきらめな。もう、勇者がすぐそこまで来てる。テメェの負けだ」
「く…ッ」
あと少しだったのに。
もう少しで、少女の心を完全に支配下におけるはずだった。それなのに、彼女はまだクランスールに逆らっている。一体、何が彼女を支えているというのだ?
自問自答して、クランスールは答えを見つけた。
怒りは、たちまち残虐な喜びに変わった。
「それは、どうかしらねぇ」
魔人将軍は一歩踏み出し、ランディに向かって右手を伸ばす。それは、一瞬にして太い蔓と化し、鋭い槍となって彼の胸を貫いた。
「……!!」
間違いなく、クプシの心を支えているのは、この男。それならば、目の前で、その支えをへし折ってやればいいのだ。
笑顔を浮かべたまま、クランスールは凶器に変化した腕を振るった。狙い過たずランディの心臓を突き抜けたイバラの蔓は、力任せに彼の体を引きちぎり、元の場所へと戻る。
声もなく、ランディは倒れた。
紅く染まって、自らの流した血の海の中へ。
「いやああああああああっっ…!!」
クプシは叫んだ。