第八章 戻れぬ旅路(後編)
何の前触れもなく唐突に、ミラノはまぶたを開いた。
状況が理解できなかったのは一瞬だけ。彼女はすぐに自分の身に起こった出来事を思い出し、ベッドの上に半身を起こした。
「ランディ…まさか」
嫌な予感が胸をよぎった。
あの眠り香のことは知っていた。呪いを解除する唯一の方法も、知っていた。
そして、今、自分の近くにウィーダの気配がないことも。
不安な思いに駆り立てられて、ミラノはベッドを降りた。
「あっ…ミ、ミラノ様!」
その時、扉を開いて入って来た女官が声を上げた。
「お目覚めになられたのですね、ミラノ様!」
甲高い声に振り返ると、彼女は転がるように駆け寄ってきて、ミラノの腕を取った。
「起き上がってもよろしいのですか?お体の具合は」
「私は大丈夫。それより、ウィーダ様は?」
「へ、陛下は…」
一瞬、口ごもる。不安そうな表情に、天使は微笑んでうなずいた。
「やはり、ここにはいらっしゃらないのね」
「は、はい…」
精神を集中させると、はるか遠く北の方に、主人の、そして懐かしい人たちの気配を感じた。
行かなくては。
大きく一度、息を吸い込むと、ミラノは純白の翼を広げた。
「ミラノ様?」
「私は、今からウィーダ様のところへ参ります」
行かなければならない。何かが起こっているはずだから。
そして、この胸騒ぎが、どうか間違いでありますように、と祈りながら。
窓際に立ち、青く晴れ渡った空を見上げ、そして少しだけ女官の方を振り返って告げた。
「心配しないで…きっと、ほどなく帰ってこられるはずだから」
「あっ!」
止める間もなく、天使は窓からその身を躍らせた。
翼を広げた姿は、きらめく光の軌跡を残してすぐに見えなくなった。
閑散とした城の中に響き渡った少女の悲鳴は、誰の耳にも届いた。
「今のは…クプシ」
廊下を急いでいたシャウラが、一瞬眉を寄せた。それほどに、悲壮な叫び。
「ここか!?」
一際大きく、豪奢な扉を見つけて、クザンが立ち止まった。力をこめて押すと、重い扉は鈍い音を立ててゆっくりと滑り出す。
分厚い扉の隙間がわずかに開くと、息苦しくなるほどの、重く湿った熱気が噴き出してきた。それと同時に、奴隷拳闘士だった彼には馴染みのある、しかし決して慣れることのない臭いが鼻をついた。
「どうした、クザン」
近づいてきたフォルドが怪訝そうな顔をした。
「そこではなかったのか?」
「いや…間違いない、ここだ」
そして、彼は再び扉に手をかけた。今度は二人がかりで、一気に押し開く。冷んやりとした廊下に熱い風が吹き込んでくる。
のぞきこむと、広間は、大きな炎によって赤々と照らされていた。
人に似た形をした、朱色の炎のかたまり。そして、その足元に倒れている赤く染まった人影。
「クプシ!!」
アシルは叫んだ。彼には、それが彼女であると一目で分かった。
「ランディ…」
そして、アンディにも、一目で分かってしまった。
力なく崩れ落ちている少年の命が、すでに失われいることに。
「あああっ…うわああああああああッッ!!」
狂戦士が吠える。自分の力ではもはやコントロール出来ない感情に振り回されるまま、アシルは戦斧を振りかざし走り出した。
その後ろで、司祭が低く、つぶやく。
「許さない」
左肩に刻まれた邪神の紋章に手を触れる。
「…滅ぼしてやる」
呪いの言葉と共に、邪悪な魔力が吹き出して、瘴気のようにどす黒くアンディの体を包んだ。
「命に代えても、貴様を滅ぼしてやる」
義務感とか正義感とか、そのようなものとは関係なく、勝手に体が動いていた。
ウィーダは聖槍を取り、アシルの前に立ちはだかった。
「止まれ、アシル!」
体ごとぶつかって、狂戦士の突進を止める。
「うがああああッッ!!」
もはや人の言葉など通じない獣のようになった少年は、めちゃくちゃに斧を振り回した。重く鈍い切っ先が、ウィーダの肩をかすめた。
「止まれ!!」
しかし、ウィーダは引かなかった。フォルドの怒号もカリンの悲鳴も無視して、暴れるアシルの胸ぐらをつかみ、顔がくっつきそうなほどの距離で、彼の濁った目をのぞきこんだ。いつもは閉じているまぶたを開くと、そこには何も映さない濃紫の瞳があった。
「私の声が聞こえるか」
「う…ううっ!」
アシルは唸った。すでに最初の目的など分かるはずもない。ただ今は、この目の前の邪魔な相手を排除するために、狂戦士は斧をふるった。
「…つッ」
斧の刃は、相手の頬を切った。勢いで、血の雫が飛んで、アシルの顔にかかる。
「アシル」
それでも、ウィーダは一歩も退くことなく、アシルを捕らえていた。
「聞け!私は」
闇を魔力の源とする暗黒魔法には、自らの生命と引き換えに、相手を灰燼に帰す魔法がある。術者も相手も、肉体はおろか、魂さえも残らない禁呪である。
アンディが唱え始めたのは、まさにその呪文だった。
「止めるんだ」
シャウラが声をかけたが、もちろん聞くはずもない。暗黒司祭を取り巻く瘴気は、長い呪文が一言ずつ完成していくにつれ、次第に濃く色を増していた。
「アンディ!」
呼びながら、彼は一歩踏み出した。魔人の中で育てられたシャウラですら寒気を感じるような、重くからみつく魔力の渦をかき分けて、アンディの傍に立つ。
「止めろと言っているのが聞こえないのか?」
すぐそばにいるのに、返事はない。ひたすらに呪文を唱え続けるアンディの顔には、憎悪だけが浮かんでいた。
ただ復讐のためだけに。
シャウラは、左肩の紋章に触れていたアンディの右手をつかみ、無理矢理引き下ろした。
「……!」
「邪魔するぞ」
中断されて、にらみつける暗黒司祭に臆することなくそう答え、魔人の公子は言った。
「つまらん相手だ。禁呪は止めろ」
そして、聖剣ムーンシェイドを抜いた。銀の軌跡を描いて、その切っ先はアンディの左肩を――邪神の紋章を、薄く切った。
「アンディ、私は」
「これ以上、誰も失いたくないのだ」
二人の王子は、同じように口を開いてそう言った。
そして、シャウラは頭をめぐらせ、広間の中央を見た。
炎の魔人と化したクプシが、クランスールを捕らえている。圧倒的な魔力と炎の熱とで、彼女は魔人将軍さえも凌駕し、押さえつけていた。
だが、混乱と恐怖と悲しみで自我を失っているのか、その姿は安定しなかった。人型となる時もあれば、火柱のように形の定まらない時もある。
「ウィーダ!」
シャウラが友を呼んだ。
「行こう。あまり時間がない」
見ている間にも、クプシの姿はめまぐるしく変わっていた。広い部屋の中も、次第に熱さを増していた。
「ああ、分かった」
答えて、ウィーダはアシルから手を離した。
何かを感じ取ったのか、暴走を止めた狂戦士は斧を持った腕を下げて、じっと立ち尽くしていた。傷口を押さえたアンディも、同じように突っ立って、歩いて行く二人の背中を見送る。
「シャウラ…ウィーダ」
他の仲間たちもじっと見守る中、シャウラは炎に近づいて、両手を差し伸べた。
「クプシ」
いつものような、素っ気ない声。だが、はっきりと彼女の名前を呼んで、彼は続けた。
「迎えに来たぞ。戻って来い」
ただ、それだけ。
それだけで良かった。
「……お兄ちゃん」
巨大な炎の中から、蚊の鳴く様な小さな声が漏れた。次の瞬間、火柱は収束し、人間の少女の姿に戻ったクプシが、中空に現れた。
「お兄ちゃん…お兄ちゃんッ!!」
泣き顔で、泣き声で、両手を広げて降ってくる小さな体を受け止めて、シャウラは小さく安堵の息を吐く。
そして、初めてクランスールに顔を向けた。
「これで、全部だが」
シャウラの顔には、彼が望んではっきりと表すことの出来る唯一の感情がくっきりと浮かんでいた。
「足りない分は、きっちりと償ってもらうぞ」
怒りを見せて、彼は聖剣を構えた。
「バ…バ、バ、バカにして…!」
クランスールは人間たちを前に、眉を吊り上げて叫んだ。
「このあたしを!一体どこまでバカにすれば気が済むのッ!!」
上手くいっていたはずの計画は、最後の最後でとんでもない大失敗に終わってしまった。ランディの死を見せつけてショックを受けたクプシの心に入り込み、魔王を召喚させるはずだったのに、結果はまったく裏目に出た。逆上し、己の力を最大限に発揮した少女は、まず自分の心を縛っていたイバラを引きちぎったのだ。
その上、魔人将軍である自分が、そんな半人半魔の小娘などに圧倒された。挙句の果てに、やって来た人間どもは彼女のことなど眼中になく、クプシやランディにばかり気を取られている始末。
しかもシャウラに至っては、言うに事欠いて、この魔人将軍クランスールのことを、つまらない相手だと言ってのけたのだ。
「人間が…ッ、人間ごときがあッッ!!」
こんな…こんな屈辱的なことがあるだろうか。
激昂が、彼女の姿を変化させていく。人の形に似せた仮の姿を捨て、本来の姿へと戻る。
それは、毒々しい紫色の花をつけた、樹木とも人間ともつかない醜悪なカタチだった。
「許さないわよ、あんたたちッ!」
顔とおぼしきモノが動いて、クランスールは叫んだ。
声と同時に、あちこちに咲いた不気味な花弁が開いて、紫色の花粉を吐き出す。いやらしいまでに甘い香りがきつく立ちこめる。
「殺すなんて生ぬるい…生きたまま、腐るがいいわ!」
濃密な紫色の霧が、見る間に広間中に広がっていく。逃げ場は、ない。
だが、二人はうろたえもせず、じっとクランスールを見上げた。
「自分がしたことを忘れたのか」
シャウラがつまらなさそうに言った。抱いていたクプシを床に下ろして、改めて聖剣ムーンシェイドを抜く。
「愚かな奴だ」
「何ですってェ!?」
「ランディを殺したという事は、ミラノが目覚めるという事だ」
ウィーダが答えた。そして、聖槍シャイニーフェイバーを構え、大きな声でその名を呼んだ。
「ミラノ!頼んだぞ!」
「仰せのままに」
言葉とともに、何もない虚空から光があふれた。
「浄化いたします」
清らかな光は優しく広間を包み込み、猛毒の花粉を一粒残らず消し去っていく。きつい香りは消え、やがて純白の翼を持つ天使が姿を見せた。
「お前の負けだ、クランスール」
シャウラはきっぱりと言い放ち、悔しげに枝をくねらせるクランスールに近づいていった。
「おのれ…おのれ、貴様らあぁッッ!!」
「それは、こちらの台詞だ」
咆哮にも似た魔人の言葉に応え、ウィーダが言う。
「私たちは、お前を許さない。絶対――絶対にだ!」
意識が回復したアシルは、今度は自らの意志で狂戦士化した。常人離れした怪力をふるいながらも、もう、味方に襲いかかることはなかった。
アンディも、いつもの冷静さを取り戻していた。戦いに向かう仲間に祝福を与え、傷ついた仲間を癒す。時には鉤爪をもって、襲ってくる触手をなで斬りにすることもあったが、邪悪な瘴気は完全に消えていた。
クザンもフォルドもティアも、そしてカリンも、自分たちの力を尽くして戦っていた。まるで無数に伸びてくるかのように思えるイバラの蔓を一本ずつ切り落とし、引きちぎり、確実に力を奪っていく。
「ああっ…何故、何故!」
やがて、枝葉も触手も、魔力も力も失って、人間ほどの小さな姿に成り果てたクランスールが叫び声を上げた。
「何故、あたしが、負けなければならないの!!」
「それは、お前が奪ってばかりだからだ」
冷たい声で、シャウラが答えた。
「何を…」
反論しようとする魔人の胸に、ムーンシェイドが喰らいつく。
最期の力を振り絞り、クランスールが伸ばした腕も、シャイニーフェイバーに貫かれて動きを止めた。
「あたし…は」
それ以上は言葉にならなかった。
二人の勇者によって串刺しにされた魔人将軍に、クプシが渾身の魔力を込めて炎を放つ。
「バイバイ、クランスール」
みなの思いとともに、炎は、跡形もなく魔人を焼き尽くした。
そして、静寂が訪れる――