甘く痺れるような痛みが、一針、一針、打ち込まれる。その度に白い肌はわずかずつ黒く染まり、闇へと堕ちていく。
おそらく、染料の中に薬が仕込んであるのだろう。この闇が、心の奥まで染み渡るように。
「汝は汝の望むがままに歩むことを誓う」
「……はい」
朦朧となりながら、少年はうなずく。
「汝は自らの欲望に素直に生きることを誓う」
「……はい」
試験とも言うべき任務を果たし、少年は司祭位に昇格するための儀式を受けていた。邪神の聖典を読む司教の目の前、椅子に縛り付けられた彼の左肩には、完全に邪神の下僕となる証として、邪悪なる紋章が彫り込まれていく。
それは、最初こそ痛みを伴っていたが、いつしか甘美な快楽へと変わっていた。
長い儀式の果てに、意識は混濁し、彼はただうなずく。
「汝は、邪神ソルに永遠の忠誠を誓う」
「はい」
視点の定まらない緑色の瞳を見開いて、少年はまたうなずいた。
「では最後に」
司教がその顔をのぞき込む。
「汝の名を、我らが神に捧げよ」
「はい……ッッ!」
最後の一針が特に深く打ち込まれ、引き抜かれる。さすがにわずかながら痛みを感じて、少年は顔を上げた。
「汝の名は?」
「僕の名前は」
答えようとして、ふと、言いよどむ。
この五年、誰も僕の名前など、呼んでくれなかった。だから、すっかり忘れていた――でも。
おぼろげに、今にも消えていきそうな記憶の中から、一つの答えを導き出す。
あの時、彼が、そう呼んだ。
間違いなく、あれが僕の本当の名前。それは。
「アンドリュー・クレイトン」
少年ははっきりと答えた。
「うむ」
その声を聞いて、司教が満足げにうなずいた。
「アンドリュー・クレイトン。これよりお前は、誇り高き邪神の司祭。今までよりも、より使命に励むように」
「はい。ありがとうございます」
左肩がじんわりと熱い。彫り師が手際よく巻いてくれた包帯の上からそこに触れると、心の底から例えようのない暗い気持ちが湧きあがってくるようだった。
そう、これでいい。
これで、僕はまた、長く生きられる。
縛めを解かれ、頭を振って立ち上がると、薬のせいか膝が震えた。薄暗い部屋に、居もしない人々の影が見えるような気がした。
「良かったな。成功して」
ザルク司祭は苦々しげな表情をちらつかせながら、儀式の間から出てきたばかりの少年に声をかけた。
「はい。ありがとうございます」
クレイトン商会は壊滅した。この混乱に乗じて、この街の経済を裏から握るという計画は、順調に進む事になるだろう。
薬のためか、まだ少し熱っぽい額に手を当てながら、少年は頭を下げた。相変わらず、人の良さそうな丸顔に柔らかな笑みを浮かべている。
自分の家族を皆殺しにしてきたというのに。
それを分かっているのか、いないのか、ザルクに窺い知る術はなかった。
「これでお前も司祭か…」
さらに言葉を続けようとして、そこでようやく彼はあることに思い至った。
「そういえばお前、名前は何と言ったかな」
クレイトン商会の後継ぎだったのだから、苗字は分かる。だが、長い間、適当に呼んできたせいで、彼自身も少年の名前を失念していた。
「アンドリューです」
だが、返って来た答えは、思ってもみないものだった。
「何だと?」
「…どうかしましたか?」
それは、彼の犠牲となった少年の名前だ。それも、双子の弟のはずだった。
「いや、その名前は…弟のものだろう」
「弟」
少年はわずかに首を傾げた。
「僕に、弟ですか?」
心底、分からないといった表情だった。
毎日鏡で見るものとまったく同じ顔を目の前にして、この少年は何も感じなかったというのか。
何も感じず、殺してきたというのか。
「いや…なんでもない。構わん、今の言葉は忘れろ」
背筋を這う悪寒に、ザルク司祭は首を振った。
「そうですか。分かりました」
その代わり、彼はある決心をして、少年を誘った。
「それよりも、少し、一緒に飲まないか?」
「え?」
珍しい申し出に、一瞬だけ、少年が驚いた顔を見せる。だが、それはすぐに満面の笑顔に変わった。
「よろしいのですか?」
「ああ。お前はもうすぐここからいなくなる…たまには、いいだろう」
「では、ご相伴させて頂きます」
二人は、師弟ではない。ただ、出来のいい子供と、それを利用しようとした大人、というだけの関係だった。
それ故に、自分より先に、イルクラチアへの栄転を決めた子供が、憎くて仕方がなかった。それと同時に、感情を持たずに笑顔だけを浮かべるこの子供が、恐ろしくて仕方なかった。
以前から計画していたことでもあり、たった今、決心がついたことでもある。
ザルクは私室に子供を招き入れ、二つのグラスを取り出した。
「ほら」
片方を少年へと手渡す。いつも通りの笑顔で受け取り、差し出してきたグラスへとワインを注ぐ。
同じように自分のグラスにも酒を注いで、ザルク司祭はわずかに笑みを浮かべた。
「お前の司祭昇格と、イルクラチア栄転に乾杯だ」
「ありがとうございます」
しかし、グラスは合わせない。ザルクは自分の目の前にグラスを掲げたまま、少年が口をつけるのを待った。
「では…いただきます」
わずかに唇を開いてグラスの縁をあてがい、少年は上向いた。細い喉が二度、三度と動く。そして、彼は微笑んだ。
「これは、どこのワインでしょう?」
あくまでも、笑顔だった。しかし、目は笑ってなどいなかった。
「お前」
予想外のことだった。
そのワインを一口でも飲んだなら、次の瞬間には白目をむき、血を吐き、床に這いずってのたうち回らなければならないはず。
「嫉妬って、醜いですね」
少年は笑う。緑色の瞳が、じっとザルクを見つめる。気が付いた時には、床に落ちた自分の影が伸びて、自分自身を椅子に縛りつけていた。
「この程度で、僕を殺せると思いましたか?」
魔力の差は、圧倒的だった。もって生まれた物が違っていた。
「生命を助けて下さったことは、今でも感謝しています。けれど」
グラスをまた、自らの口元に寄せながら、少年は静かに告げた。
「殺すなら、あの時に殺しておくべきだったんですよ」
優しい笑顔で血の色をした液体を口に含み、指一本動かせないザルクに顔を寄せる。
「や…や、やめるんだ」
毒に濡れた唇が、男の唇に押し当てられた。固く閉じようとしても、這い寄ってきた影が忍び込んで、無理矢理こじ開けてしまう。
「う、うぅ…ッ!」
少しぬるいワインが甘く、滑らかに、司祭の喉に流し込まれた。
「あ…あ、あ、ぁ、ぁ」
少年がにっこりと笑った。あくまでも優しく、慈悲深く。
「こういうやり方を教えてくださったのは、他でもない。あなたですよ」
身を引いて、グラスを床に投げ捨てる。毒とガラスが混じり合って砕ける。
嫌な予感が現実となり、みるみる失われていく意識の中で、司祭は少年を呪った。
「今まで色々、ご教授ありがとうございました。ザルク司祭」
椅子に縛り付けられたままのザルクは白目をむき、赤く泡立つ血を吐きながら、がくがくと体を震わせていた。
そこには、この世のすべての快楽があり、すべての富がある。
あらゆるモノを手に入れることが出来る場所。何もない荒野に咲く、美しい大輪の華。
夢と幻想と欲望で出来た不夜城、イルクラチア。それは魔王ソルの使徒たちが作り上げた最高の芸術品であり、少年の新しい故郷となった。
アンドリュー・クレイトンは、相変わらず人を殺し、男に抱かれ、必要とあれば女も抱きながら、生き続けていった。そして、十歳に満たなかった子供は十七歳の青年に成長し、いつしかこの街の領主を任されるまでになっていた。
黒く豪奢な衣装に飾られて、華美な装飾を施された館の上から街を見下ろす。
青年は、窓枠に肘をつき、絶え間のない喧騒と冷たい夜風に身をさらしていた。感情のない、形だけの笑みを浮かべた柔和な顔は、目に映る何も、見てはいなかった。
生命の危機に脅えていた時が嘘のようだ。
必死で生きて、生き延びて、気付けばこんな場所に立っている。金も物も、人の生命さえも、何でも思い通りになる場所に。
ここまで来て、彼は思う。
僕が欲しかったものは、何だったのだろう?
他人の生をいくつもいくつも奪ってまで、手に入れようとしていたものは。
静かに、私室の扉がノックされた。
「クレイトン司教様」
控え目にかけられた声は、部下のカーチス司祭のものだった。
「どうしました?」
「珍しいワインが手に入りました」
カーチスは、抜け目のない男だった。ありあまる欲望を持ち、いつも何かに飢えているような顔をしているカーチスを、アンドリューは正直うらやましい、とも思う。
「司教様は、ワインがお好きだと聞いておりますので」
「…入ってください」
青年は窓際から離れてテーブルについた。音を立てないようにそっと扉を開いて入って来たカーチス司祭は、どこか見覚えのあるワインの瓶を持っていた。
それはあの日、ザルク司祭が子供に見せたものと同じ銘柄のボトルだった。
「ふふ」
アンドリューは微笑んで、それを受け取った。
「今日は気分がいい…一緒に、飲みませんか?」
「は…よろしいので?」
「ええ」
グラスを2つ取り出す。自らの手で栓を抜いて、懐かしい血の色をした液体を注ぐ。それをうっとりと緑の瞳に映して、彼は言った。
「昔のことですけどね」
突然の言葉に、カーチスがびくりと肩を震わせた。
「僕は、このワインで、自分の師とも言うべき立場にある人を殺しました」
「――!」
「あの時は、毒が入っていましたから、ゆっくり味わえなかったけれども」
唇をつけると、やっぱり甘かった。
何か薬を仕込むにはうってつけの、濃い甘さ。だから、こういう時はこの銘柄が選ばれる。
「いただきますよ」
いつもと同じように柔らかな笑顔を見せて、彼はグラスを傾けた。やっぱり甘過ぎる、けれども。
「……美味しい」
息を飲んで見守るカーチスの前で杯を空にして、さらにもう一杯要求する。
あれほど大切にしていたはずのものが、いつの間にか、いらなくなっていた。
アルコールと一緒に薬が回っていくのを、冷静に感じ取る。足から、腕から、みるみる力が抜けてゆく。倒れていく途中で、アンドリューは自らの意識を手放していった。
もう、いいよね。
もう、僕は十分生きたよね――ラザフォード。