「目が覚めたかな?」
こんなにまぶしい太陽の光は、久しぶりに見るような気がする。
柔らかく暖かい、日なたの匂いがするベッド。甘いコーンスープの香りが鼻をくすぐる。わずかに顔を動かすと、全身が軋み、痛みを訴えた。
「く……ッ!?」
「これ、そんなに慌てるな。まだ動ける体ではなかろう」
どこかとぼけた声がかけられる。目だけでそちらを見ると、人の良さそうな初老の男がベッドの傍らに立っていた。
「しゃべるのも辛いのではないかの?」
「………」
その通りだった。ひりつく喉が痛んで、唾を飲み込むことさえ出来なかった。
そもそも、何故自分がこんなところにいるのか、見当がつかない。助けを求めるように老人を見ると、彼は優しく微笑んで応えた。
「まぁ、まずは水でも飲むがいい」
口元にあてがわれた水差しから、冷たい水がこぼれ落ちてきた。ゆっくりと飲み込んで、わずかに息をつく。粘ついていた唾液は洗い流され、清浄な空気で満たされる。
「傷だらけで、そこの河原に打ち上げられておった。丸四日、眠っておったよ」
疑問符が顔に出ていたのだろう。老人は簡潔に、彼の知りたいことのみを告げた。
「色々と、訳ありのようじゃな。しかし、別に、しゃべりたくなければ黙っておればいい」
そして、ゆっくりと背を向ける。
「腹が減っているならスープがあるが。今食べるか、それとも後にするかの?」
「………いま」
青年は答えた。何故だか、一人になりたくなかった。誰でもいいから、そばにいて欲しかった。
このまま放っておかれたら、二度と目覚めない眠りについてしまいそうだった。
「そうかそうか。では、持って来るから少しだけ待っておれ」
わずかな間だけ、扉を開いてどこかへ行ってしまう。すぐに戻って来る老人を不安な気持ちで待ちながら、青年は記憶をたどった。
痛みを訴えるのは、体だけではなかった。思い出そうとすると、頭がえぐられるように痛んだ。
「う……っく」
「どうしたね」
痛み以外のものに苦しんで、じっとりと汗をかいている青年に、老人が柔らかい声をかけた。
「さて。飲めるかな」
穏やかな笑顔でベッドサイドに腰を下ろし、傍らのテーブルにスープのカップを置く。スプーンでひとさじすくい、それが冷めるのをゆっくりと待ちながら、彼は言った。
「焦る事はない、ゆっくりとしていけば良い…疲れたろう?」
「あ……」
口を開けたからそんな声が出たのか、それとも何かを言いたかったのか。
自分でもよく分からないまま、青年は温かいスープを受け入れた。甘い味が、とても懐かしかった。
少しずつ、彼の体は回復していった。
老人は何も聞かず、何も語らず、ただ黙々と彼の面倒を見てくれる。最初は何故だろう、と思ったが、やがて朝夕聞こえてくる祈りの声で気がついた。
この老人は、光の神に仕える司祭なのだ。天上の高い所にいるという、秩序を守り、慈悲を与える大いなる神。
だがしかし、だからといって、傷ついて倒れていた者ならば、誰でも助けるというのか。
ゆっくりとベッドの上に半身を起こして、アンドリューは自らの左肩を押えてみた。そこには、決して消すことの出来ない証拠が黒く刻まれていた。
老人の信じる神と敵対するはずの、魔王の使徒の証。
傷だらけだった体をきれいに洗って、手当てをしてくれたのだ。見ていないはずはないし、ましてや知らないはずもない。
それなのに、助けた。
誰でも…本当に、何者でも?
自問自答していると、隣の部屋から聞こえていた祈りの声が途切れた。待っていると、静かに扉が開いて、いつも通りの笑顔で老人が入って来た。
「おう、もう起きられるようになったか。若い者は回復が早くてうらやましいの」
「…ありがとうございます」
老人の意図が分からない。笑顔の意味も分からない。神の敵である自分を助けて、この老人に何の得があるというのか。
アンドリューは、引きつった笑みを浮かべて応えた。
「あの…」
言いかけて、口ごもる。
そんなことを聞いて、それこそ何になる?理由が分からなくても、勝手に面倒を見てくれるのだから、好きにさせておけばいいではないか。利用出来るものは利用する。それが、自分たちのやり方だったはずだ。
「どうした?腹が減ったか?」
それを知ってか知らずか、老人はのんびりとした口調で声をかけた。
「……はい」
アンドリューは、ためらいながら、うなずく。老司祭は困り果てたような彼の表情を満足そうに眺めて、答えた。
「よしよし。それじゃ、今日はわしも隣で一緒にいただくとするかの」
「えっ?」
「どうした、何か不服か?」
「い、いえ、そんな」
ただ、どうしたらいいか分からなくて、青年はうろたえた。しかし、老人はむしろそれを楽しむようにいそいそと食事の準備を始めた。
「いつもと変わらん食事じゃが、まぁ遠慮せず食べてくれ」
「はい…いただきます」
パンにスープ、腸詰とチーズ。質素な食事を取りながら、それ以来二人はじっと黙りこくる。
だが、楽しげな老人の表情とは裏腹に、青年の視線は落ち着きなくあちこちをさまよい、あからさまに動揺の色を見せていた。
「ところで」
スプーンを手にしたところで突然かけられた声に、彼は固まった。
「…何をそんなに強張っておる。わしは、お前の名前も聞いてはならんのかな」
「……いいえ」
青年は苦笑を浮かべて首を振った。
「ただ…こういう状況には、慣れていないもので」
暖かい食卓に、心からの笑顔。そんなものとは関わりのない世界で育ってきたため、老人の優しさが逆に苦しかった。どんな相手でも疑わなければならないはずなのに、そうすることが、もはや、辛い。
彼は、スプーンを置いた。
「僕の話を、聞いていただけますか?」
長い長い、闇の世界の話を、光の神に仕える司祭は嫌な顔ひとつせず、すべて受け止めてくれた。そして、すべてを聞き終えてぽつりと言った。
「よく頑張ったの」
「…え?」
思いもかけない言葉に、青年は顔を上げた。
「よくぞ生き残って、わしのところまで来てくれた。感謝する、アンドリュー」
「一体何を」
強張った顔に、わずかに怒りが浮かぶ。
「この僕に、どうしてそんな言葉が」
「わしもな」
老司祭ハルンは、それを静かに遮った。
「お前と同じ。教会を追われて来たんじゃよ」
「………?」
「光の神に仕えとるとは言っても、人間の欲望はそちら側と何も変わることはない。権力に憑かれた者はどこにでもおるという事じゃ」
聖都の大司教であった老人も、罠にはめられた。
枢機卿の地位に登りつめようとするその瞬間に、長年共にあった、友人と思っていた男に裏切られた。ありもしない罪を着せられ、大司教の地位も奪われて、片田舎の司祭として晩年を送るように命ぜられたのだ。
もうあまり長くない人生を、これから一体どうやって埋めていけというのか。
ただ枯れて、朽ち果てていくだけなのか。
一生懸命生きてきたのに、神は…今までのすべてを賭けて信じ続けていたはずの神は、一体、この自分に、何をどうしろというのか。
夢も希望も失った。ただ無為に日々を過ごす時間が続いていた。
「じゃが、お前に出会ったことで」
老人は、笑みを見せた。
「わしは、救われたよ」
一体、話がどうつながるのか、まったく分からない。アンドリューは何もしていない。ただ、死にかけていたところを拾われただけだ。居心地が悪かったから、過去の話をしただけだ。
それなのに、何故。
「お前にもいつか、分かる時が来る」
年老いた司祭は、確かにそう言った。
友情だの愛情だのというものはさっぱり分からなかったが、アンドリューはそのままハルン司祭の家に居座り続けた。
暇つぶしがてら、一緒に祈りの言葉を口にしてみたり、神聖魔法を教わったりすることもある生活は意外と面白く、ここを離れがたいのは事実だった。
それに、今さら暗黒教団に戻ったところで、彼の居場所などない。それならば、もう何もかも忘れて、この老人と暮らすほうが楽でいい。理不尽な死というものが、決してあり得ないこの場所で。
「アンディ」
ハルン司祭は、親しみを込めているつもりなのか、青年をそう呼んだ。
「ところでお前。東国に興味はないか?」
「東国?」
彼らが暮らすガルダンを越え、さらに隣国のペトロニアを越えた先にある砂漠を越え、さらに東に進んだ場所にあるという、遥か彼方の遠い遠い国。
知識としては叩き込まれていたが、いきなり尋ねられてもよく分からない。首をひねるアンディに、老人は告げた。
「わしの代わりに、行ってはくれまいか」
「…え?」
「実はな…わしはもう、そう長くはないんじゃよ」
癒しの力を持つ者だからこそ、ハルンには分かっていた。神の下に召されるべくして、治しようのない病魔が自らの体に巣食っている。
しかし、その事実は伏せて、彼は願いごとだけを口にした。
「そこで、これを、東国にいるある人物に届けて欲しい」
それは、老司祭が肌身離さず持っている、古びた聖書だった。
「しかし、これはハルン司祭が一番大切にしているものなのでは?」
「約束したんじゃ。若い頃にな」
布教のために東へと旅をした時に出会った、一人の倭人。その男にその本が欲しいと言われたのだが、修行中の神官が聖書を手放すわけにはいかない。
「それで、まさか…いつか、いらなくなった時に渡すとでも仰ったんですか?」
「そう、その通り。いや、お前はやはり聡い子よな」
楽しそうに応える老人に、アンディは頭を抱えた。
「そんな約束のために、この僕に、その本を持って東国まで行けと?」
「見聞を広めてくると思えばいいではないか。砂漠越えも意外と面白いぞ」
「東国といっても広いでしょう?どこの誰なのか分かっているんですか?」
「まぁ、一応」
今度は少しばつが悪そうにそう答え、ハルンはさらにもう一冊の本を取り出した。
「これが東国の言葉の辞書。で、これが、男の名前と住所」
辞書らしき本に挟んである萎びた紙切れには、見たことのない不可思議な形の文字が書き込まれていた。
「……何と書いてあるんですか?」
「ソウケダイニジュウゴダイメサイモンリュウニンポウジュツケイエモトトウシリュウザキゴウテンマルエンゲツ」
「……は?」
どこをどう読めばそうなるのか、さっぱり分からない。
しかし、困惑するアンディに本を二冊押し付けて、老司祭は満面の笑みを浮かべた。
「お前は賢い。少し勉強すれば、どちらの本もすぐに使いこなせるようになるはずじゃ」
さらに、どこに隠していたのかは知らないが、かなりの額の金貨を取り出してテーブルに並べる。鞄に着替え、すでに旅装はすっかり整っている様子だった。
「本気ですか?」
「楽しみにしておるぞ」
「僕は行きませんよ!?」
その二週間後、結局青年は旅に出ることにした。
平穏な生活は終わった。ハルン老司祭は死んだのだ。
アンディは、生まれて初めて、殺されるのではなく、安らかに死んでいく人間を見た。
その死に顔は最期の瞬間まで笑顔だった。
「あんなに期待されたら、行かない訳にはいかないじゃないですか…ほんとに」
純白の司祭服に身を包み、鞄を背負う。懐には古い聖書、そして片手に倭語の辞書。
あちらの国には、光の神とも暗黒の魔王とも違う、別の神を信仰している人々がいるという。
すべてを信じられないこの身には、面白そうでもあった。